テキスト ボックス: 題字 内藤孝彦(書家)

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長居公園の行政代執行に芝居で抗議するテント村住民と支援者(2007年2月5日)

 

はじめに

私たちの運動

 

事件の発端に何があるのか

私たちの活動する釜ヶ崎や、大阪市の日雇い労働、野宿をめぐる周辺では、大阪市による世界バラ博のための靭・大阪城公園に対する行政代執行(2006.1.30)以降も、はじめに排除ありきの施策が続いています。2006年春には、天王寺公園外周、日本橋公園、愛染橋公園、関谷町公園と立てつづけに排除が行なわれ、これらは、公園に住むテント生活者のもとを公園を管理している大阪市職員数人でおとずれ、取り囲むようにして都市公園法を盾に出て行くことを迫り、同意書(公園を出て行くことへの)を書かせるというものでした。当事者から要請を受けた支援団体は、大阪市に対し交渉を求めますが、市は「当事者とは話をするが、団体とはしない」という姿勢を取り続けます。

こうした流れのなかで、2006927日の不当逮捕が起きます。一件は422日に南海汐見橋駅近くのテント群の大阪市による薬剤散布において、排除など不当な扱いをしていないか業務を監視していた時に。もう一件は、日本橋公園から追い出された人が、西成公園に住むところを求めてテントを建てていたところ、公園を管理している大阪市職員が阻止しようとして起きました。容疑はともに業務威力妨害で、内容も当たった、触ったの域を出ないものですが、勾留期間は今日(20078月)で10ヶ月にも及びます。裁判所は、被告人に反省が見られない為としますが、人権を無視した脅迫まがいの排除には何度でも抗議の声を上げるでしょうし、抗議を行うことは正当な権利で、護られなければなりません。見せしめとしか言いようがなく、今年長居競技場で世界陸上を開催するためテント村排除を見越して、運動を事前に萎ませようという狙いもあったのでしょう。

 

硬化する行政の体質

200611月には大阪市の執行会議(市長、助役など5名が参加)で長居公園テント村にに行政代執行を行なうことが決まったと知らされました。長居公園テント村では、地域との関係を大切にし、芝居や音楽も含めたイベントを催したり、自分たちで作った野菜を販売したりして交流を深めてきました。さまざまな偏見に晒される野宿生活ですが、実際に関わり、知ってもらう開かれた場として、大きな意義をもっていました。

大阪市の公園管理を担当している人たちも、継続した関わりのなかで、なぜここにテントを張らねばならないのか、なぜ出られないのか、理解してくれる人もおり、また工事を行なわねばならない時は、その区域から移動するなど協力関係を築くことができましたが、執行会議の決定以降、現場人員の移動も行い、大阪市は強制排除へ向け姿勢を強固にして行きました。

協友会では、今年の春に大阪市で公園管理を担当する「ゆとりとみどり振興局」と話し合う場を持ち、その席で施設管理担当課長は「あくまで話し合いで解決して行くのが我々のスタンスだ」と言いますが、しかし、自立支援センターか、シェルターに入れ、いずれにしても出て行けと要求を突きつけることが話し合いと言えるでしょうか。その“話し合い”の結果、大阪市は行政代執行という力技で、彼らの問題を“解決”しているのです。

何百人と動員された大阪市職員、警備員、警察に囲まれ緊張が走ります。何度も何度も話し合いを、対話を求めながらこうなってしまう。話の出来る人は配置を変えさせられ、強硬な追い出しを進めながら、「話し合いの努力を続けたが、やむおえない結果で残念だ」と言えるような人が残り、出世していく。

行政代執行を行う前には、該当物件の所有者に弁明する機会が与えられます。行政が一方的に権力行使を行なわないようにこの機会がもうけられていますが、では誰がいつ、提出された弁明書を読み、検討し判断したのか、大阪市からは何の回答も得られず、「もう(代執行を)行なうことは決まっているのだから、読んでも読まなくても一緒だ」ということを大阪市職員が真顔で言うので、おどろくばかりです。住民票削除の問題でも、それを決定した市長に対し、誰か現場の状況をよく知っているものが意見しないのかと問うと、「市長は社長みたいなものだから(誰も意見しない、出来ない)」と答えた職員がいました。西成区がこのことを黙認してきたのは、施策によって救済されない住所の問題に、何らかの措置が必要であることを認識していたからです。

 

居場所を求めて

住民票の問題の発端は30年前に遡ります。日雇い労働で生活する釜ヶ崎の労働者が、日雇労働者雇用保険(通称白手帳)に加入するために住民票が求められ、労働者が常宿としていた簡易宿泊所(通称ドヤ)に住所を置くことを行政は認めなかったため、労働組合が事務所に住所を置いたのが始まりです。建設・土木の仕事は景気や天候の影響をまともに受ける不安定な仕事で、だからこそ必要な雇用保険なのですが、行政の求める住民票を置けるアパートなど住宅は、収入が安定しなければ実現できず本末転倒しています。

石炭から石油へと急激に転換するエネルギー政策のなか、バタバタと閉山になった炭鉱の労働者、中学校あるは小学校を出てすぐに仕送りのため、あるいは口減らしのため都会へと働きに出た人たち。都会には日本の経済成長とともに建設・土木の仕事がありました。戦後に再スタートした日本の経済は、新しい民主主義の思想、理想を背景に成長し、物が増え豊かになることは、経済的に成功することは、差別や貧困も含め、あらゆる問題を解決するように思えましたが、釜ヶ崎に来た彼らには、その時すでに帰る場所はなかったのです。

そうした人たちが集まる釜ヶ崎で、住所を置くということは、居場所を、戻る場所を提供するということでした。帰れる故郷はなくとも、毎日あいさつを交わし生きられるというだけでも、立派な居場所であり、生活の拠点です。

 

私たちの運動

私たちの運動は、公園から出て行くことや、住民票を削除することに反対しているのではありません。人や人生は決して規格品のようにはなりません、しかし、まるで規格外かのように扱い、矯正や再教育が必要かのように扱い、そうした人たちが私たちとまったく同じ人間で、なぜそういう状況に置かれているのか考えもせず、振り返りもせず、役所の好きな“適正化”という言葉をつかい、人としての権利や生きる権利を省みず、そこにある生活や居場所を寸断し破壊すること、人であることからの排除に反対し、抗議しているのです。

長居公園での行政代執行、住民票削除の時には、他人事ではないと感じた若い人たちや、近所に住んでいるから、など理由はそれぞれに、沢山の人が駆けつけてくれました。2000年以降の企業ニーズと人材派遣会社の急増を背景にした200万人といわれる非正規雇用、不安定就労にある若者たち。働いても働いても生活苦から抜け出せない毎日を送る人たちの存在が表面化しているなかで、さまざまな人たちが、それぞれの形で声を上げています。経済的格差による貧困を背景としたこうした運動は、いま、垣根を越えて、結びつこうとしています。

今年778日には24回目の全国地域・寄せ場交流会を私たちの地元、大阪で開催し、全国から約300人が参加者を迎え、成功裏に終えることができました。今回の協友会通信では、そうした変化しつつある運動のなか、大阪での活動で寄せられた人たちの声を、お伝えします。どうか私たちの運動に、心をお寄せください。

 

釜ヶ崎キリスト教協友会・記録白書委員会編集長 森下敏行

 

−もくじ− 

9.27弾圧事件

9.27弾圧事件の意味するもの ・・・1

新聞記事より ・・・2

陳述書 ・・・4

最終陳述書 ・・・14

 

住民票問題

住民票問題の経過 ・・・22

新聞記事より ・・・28

住民票問題日録 ・・・38

大阪高裁判決に見える差別と偏見 ・・・41

おかしいことはおかしい ・・・42

大阪市による住民票削除と山内訴訟に対する大阪地裁判決の意義 ・・・43

 

長居公園行政代執行

長居公園仲間の会 ・・・45

新聞記事より1 ・・・53

Sさんの弁明書 ・・・57

新聞記事より2 ・・・61

長居のこと ・・・66

あたしとテント村 ・・・70

釜ヶ崎日録

編集後記


 

9.27弾圧事件の意味するもの

 2007927日の朝8時過ぎ頃だったと思いますが、釜ヶ崎日雇労働者や、野宿を余儀なくされている労働者等の生活保護の相談活動を行うために、医療連事務所にいつものように出向いた時、いきなり医療連メンバーから電話がありました。電話での問い合わせの内容は、「今朝、稲垣さん(釜ヶ崎地域合同労働組合委員長)らほか数名が捕まったようだが、大谷さんは大丈夫なのか?」と言ったものでした。その日の夕刊各紙にこの事件のことが掲載されており、ようやく、事件の概要を把握することができました。とりあえずは、その日の夜に、各公園で野宿生活を続けている労働者や、野宿者支援団体、さらには、この間の大阪市による強制排除に対し、共に闘ってきた労働組合の仲間たちが集まり、「反弾圧9.27救援会」を立ち上げました。

 今回、927日の早朝に令状逮捕された、稲垣さんを含めた4人(他1人は別件での令状逮捕で、20日間拘留ののち釈放される。)は、清掃作業をしていた大阪市職員に暴行を加えたという容疑で、結局のところ起訴されます。しかしながら、大阪市職員に暴行を加えたという容疑についてですが、実際には、ビデオ撮影に抗議しただけの些細なことであり、しかも令状逮捕される何ヶ月も前の出来事だったのです。

 今回、927日に令状逮捕された5人は、大阪市がこの間強行している、野宿者強制排除に対し、共に反対の取り組みを続けてきた仲間です。今回、4人の仲間が起訴された事件についても、清掃等を名目として、大阪市が野宿者のテント潰しを行わないよう、現場で監視の取り組みを続けていた際のトラブルに過ぎないのです。そもそも今回の927日における逮捕の件について、その根本的な原因は、あくまでもテントを張って野宿することを許さないという大阪市の強硬か姿勢にあります。そして、この大阪市のやり方に抗議する者は、例えそれがどんなに些細なことであっても、警察権力を使って弾圧するという、大阪市=行政の強い意志を、今回の9.27弾圧を通して改めて感じています。ともかく、起訴された4人の仲間の保釈がなかなか認められないという状況が大きかったと思いますが、大阪市は、200725日には、昨年の靭・大阪城公園に引き続いて、長居公園にも行政代執行を強行したのです。

 今回の9.27弾圧に限らず、最近では、ビラ撒きをしたぐらいで、逮捕される事件が、全国的に相次いでいます。行政のやる事に、自由にものが言いにくい時代に突入したとも言えます本当に恐ろしい時代になったと思います。このままでは、この国には未来はないといっても過言ではありません。そういった時代状況であるからこそ、行政がやることで、「おかしな」ことはおかしいと言い続ける勇気と、そのことに対して弾圧があったとしても、それをはねのける強固な体制作りが、全国各地のそれぞれの現場で、今、一つの課題として求められていることであるように思います

大谷隆夫

 

9.27弾圧事件とは、前ページにも紹介されています。’06427日、大阪市が路上清掃を口実に、大阪市浪速区汐見橋付近の路上テント生活者の追い出しを計ったことへの抗議が、威力業務妨害にあたるとして、後日二人が逮捕されました。また、613日には、西成公園にテントを建てようとする労働者を市職員が止めようとするので抗議すると、これまた威力業務妨害で、後日三人が逮捕されました。その事後逮捕の’06927日だったので、総称として「9.27弾圧事件」と呼びます。ここでは、逮捕された4人の法廷での冒頭陳述(418日)と「最終陳述」(717日)を本人たちの了解のもとに紹介します。本人たちのことばから、この事件の意味を汲み取ってください。

 

1.陳述書(汐見橋)

稲垣 浩

 公判前整理手続きは、密室裁判のようなものであり、被告人を長期勾留する口実になると分かりましたので、今後、私が裁判を受けるようなことがあれば、この手続きを拒否します。

 

 私が反対して戦っているのは、警察も含めた「差別行政」です。行政の施策一般に反対しているのではありません。検察官は、私がことごとく行政に反対しているかのように言っていますが、それは違います。

 

 釜ヶ崎は西成区にあって、面積は0.62平方メートルの日雇い労働者の町です。そこには西成警察署が15台もの監視カメラを設置して24時間日雇い労働者を監視しています。労働者は釜ヶ崎を「塀のない刑務所」のようなものだ、と言います。世界中どこを見ても、監視カメラによって一つの町が監視されているところはありません。

 

 釜ヶ崎のなかにある、通称「センター」といわれるところの3階にあいりん職安が設置されて36年たちます。未だに1件の仕事の紹介業務をした事がありません。その結果、日雇い労働者たちは、違法な手配師や人夫出しの手を通じてしか仕事に就くことができません。数年前に、朝日建設の飯場に入っていた日雇い労働者が殺害されると言う事件がありました。暴力を振るわれたり、働いたお金をもらえなかったり、労災をもみ消されたりもしています。日雇い労働者の人たちが安全に仕事に就けないという状況が続いています。

 ちなみに、同じように日雇い労働者の町である東京の山谷、横浜の寿町、名古屋の笹島では、そのなかにある職安が日雇い労働者への仕事の紹介業務をしています。あいりん職安では一件もありません。あいりん職安が仕事の紹介をしないのは国の差別行政です。

 

 大阪市の出先機関である市立更生相談所は、日雇い労働者の人たちが生活に困った時に訪ねていく窓口になっていますが、生活保護法の原則は居宅保護であるにもかかわらず、いまだに大阪市の方針として施設収容を繰り返しています。これも差別です。

 

 釜ヶ崎の中に、萩之茶屋小学校と今宮中学校があります。その壁に、散水装置が設置されています。この散水装置は、花や木に水をやる為の装置ではありません。野宿者が野宿をしないように、歩道に水をまいているのです。生徒が通学する前に「掃除」と称して今も水を流しています。これを見た生徒達は、「野宿している人は水をまいてでも追い出せばいいのだ」という考え方になる子もいるでしょう。子供の教育にとっていいとは思いません。差別を植えつける教育ではないかと思います。

 

 大阪城にできたシェルターは、個室ではありますが、横が1.5メートル、奥行きが1.8メートル、その中にベッドが一つ置いてあるだけのものです。これは、私が大阪拘置所で入っている独居房の畳の面積と同じです。畳部分の後ろに手洗いやトイレがあるので、独居房のほうが大阪城のシェルターよりも広いのです。入口にはアコーディオンカーテンがあるだけです。プライバシーもありません。シェルターから出てきた労働者は「鳥が卵を産むために入れられているケージを連想する」と言っていました。

 釜ヶ崎の通称三角公園の南にあるシェルターには寝床に枕もありません。枕がなくて眠れますか。健康で文化的な生活とは思えません。

 

 2002年にできた「ホームレス自立支援法」は、排除と収容を意図した法律で、特に11条は、野宿生活者の排除をうたっています。それ以外の部分に関しては、そもそも現行法を適用すれば十分対応できるものです。大阪市はこの法律を忠実に実行しており、公園に設置されたテント小屋を次から次へと行政代執行で排除しています。

 この法律は、天下の悪法です。らい予防法と同じ、廃止にすべきです。

 

 大阪市は、釜ヶ崎解放会館に住民登録した日雇労働者の人たちに大阪市は住民登録を強制削除しました。これは、釜ヶ崎の日雇い労働者が簡易宿泊所を転々と移動せざるをえないことなどをまったく考えずに行われたものです。

 

 汐見橋の件ですが、野宿している人々を強制排除する材料として「掃除」「薬剤散布」を使っています。当日、私はたちはテント小屋が大阪市の職員によって強制排除されないよう監視活動をしていました。私や仲間の人たちが肖像権を侵害されたので、大阪市職員が撮影しているビデオカメラのレンズを手で覆っただけです。暴力と言われるようなことをしていません。

 

 私の母親は今年の219日に亡くなりました。自分の命と引き換えに、私を権力の手から奪い返し、私を自分の手元に連れ戻しました。私も、こういう死に方ができればいいと思っています。

 

 最後に、去年の130日、靭公園で大阪市により強制排除された山田さんが、その後扇町公園のテントの中で亡くなりました。靭公園で、排除と収容を拒否して戦った山田さんと、路上で亡くなったすべての人たちに捧げます。

 

 私のことを野垂れ死にと言わないでください。

 大阪市が撃ちはなった「差別」という銃弾が私の命を奪ったのです。

‘07418日)

 

2.陳述書(汐見橋)

垂見徳仁

●今検察官が言った日時にその場所に居たことは争いません。

●しかし、稲垣さんと共謀などしていません。今検察官が言ったような妨害行為もしていません。

●私は大阪市の職員に対して正当な抗議をしたのです。なぜそのような抗議をしたのか述べたいと思います。

1. 私は仕事の無いときはよく中央図書館に行きます。その途中でフォスターの草競馬の曲を流しながらゴミの回収作業をしている市の車を汐見橋線の通り沿いで見かけます。線路に沿ってテント小屋で生活している人たちの前を通り過ぎて行きます。それをみるたびにいつも思います。

   なぜ、一緒にゴミの回収をして行かないのかと。きちんと一箇所に固めて置いてあるのに、どうして2ヶ月も放ったらかし、わざわざ大掛かりに人員も車両も民間業者に注文して大勢でやるのかと。日々の回収のエリアに組み込みさえすれば、日常の業務で、しかも滞ることなく清潔であるはずです。

   ここに、大阪市の姿勢が見えます。現実に存在し、生きている人間を無視する姿があります。ゴミを日常の業務として回収すると、そこに生活している人たちの生活実態を認めてしまう、といった何とも了見の狭い考えがみてとれます。

   それは、ゴミを回収しているときにも現れています。大勢でドタドタとやってきて無言のうちにガチャガチャとフェンスをはずし、走るようにして通り過ぎて行きます。そこに暮らしている人たちに声をかけるでもなく、人が居ることを知らないかのように無視していく。

   私にはそれはある種の脅し、嫌がらせのように見えます。わざわざ2ヶ月もゴミをため、周りをフェンスで囲い、さらには小屋に「不必要な物品を処分する」と貼紙をする。歩道を行く一般の人たち、車で前を通って行く人たちにさえも、テント小屋そのものが不必要な物品であるというイメージを植えつける行為をしていくのです。そこに生き身の人間がおること、何十年という時間を生きてきた具体的な存在の人間が生きている現実を無視している大阪市の姿があります。

2. 2月7日産経新聞に載った撤去を控えての長居公園の記事にこんなことが書かれています。

  「1月30日行政代執行にかかわる文書の通知のためテントを訪れた市の担当職員に野宿者グループの青年の1人が無言で「申入れ書」を渡そうとしていた。市とグループの間で話し合いの場を作るように求める内容だった。課長は文書を受け取ろうとはせず、そそくさと歩き出した。追いかけて課長の前に立ち、唇をかみ締めながら再び「申入れ書」を差し出す青年。課長は目をそらしながら歩き続ける。次第に白ヘルメット姿の市の職員が集まって来て、課長をガード。はじかれた青年は「申入れ書」を渡せなかった。野宿者グループの要望を受け入れられるかどうかは別として「申入れ書」を受け取ることに何か支障があったのか。「申入れ書」一枚すら受け取れないとなると、きちんとした対話ができているのかと疑問に感じてしまう。青年が課長に文書を渡そうとしたのは野宿者テントへの通知業務を終えたあとのことだ」と。

   このような記事が載っていた。ここに、大阪市が今まで公園や路上や河川敷で野宿生活をして生きざるを得ない者たちへの対応の姿がよく現れています。目の前に存在している生き身の者の存在を無視する姿が見えます。

   「テント小屋が減ればよい、公園から路上からなくなればよい、住民基本台帳法に載っていない者はこの世に存在していない者だ、この世に存在していない者がテントの中に居ても居なくても知りません」と言うことなのだろう。

   大阪市はその人たちの言い分は聞きません。大阪市の用意した「自立」しか認めず、それに乗れないのなら様々な人権が剥奪されてもかまわない、と言っているに等しいです。それを証明しているような事例があります。

3. 釜ヶ崎解放会館に住民登録している大勢の労働者から住民登録を取り上げようとしている大阪市の姿勢に対して、1月26日から2月8日まで西成区役所で開かれた個人説明会に付き添ったスタッフが質問をしました。「野宿している人はどこに住民票を置いたらいいのですか?」と。「そんな相談は想定していません」と担当者。「では、どこに相談すればいいんですか?」と尋ねると「そんな窓口はありません」と答えたと言います。

   大阪市は住居をもてない人たちに何の配慮も救済策も示さず、住民票の登録の削除を強行しました。大阪市にとって、路上で生活する者、公園で河川敷で生活する者は存在しない者たちなのでしょう。

4. 2005年11月の毎日新聞にこの10年間の大阪市における「行路病死者」の統計表が発表されていました。そこでは2003年から2005年と連続して1000人を超えています。

   野宿生活者が救急車を呼んでもらい、運ばれていくときは行路病扱いです。「行路病死者」つまり行き倒れです。救急車で病院に運ばれても身元の判明が困難であったり、身内の者がなかなか引き取らなかったり、引き取り手が現れなかった人たちがその多くです。今の時代、四国や西国札所巡りのお遍路の途中で倒れても引き取り手が現れないなどとは考えられません。この1000人を超える人の大多数が60歳を超えると思われる年配層であるといいます。そして、90%を超えて男性であるともいいます。

   3〜4年前までは1万人を越すと言われていた公園、河川敷、路上での野宿生活者の数が4000〜5000人に減ったと言われています。確かに見た目の限りでは公園からテント掛けの野宿生活者の数は減っています。しかし、減ったのは“死んで逝った”のです。この「行路病死者」として扱われた人たち、釜ヶ崎で無縁仏として扱われた人たちこそがその人たちなのです。

   公園や河川敷から追われ、リヤカーや小さな台車、自転車の荷台に生活道具を積んで移動しながら、鉄道のガード下、高速道の下、路上で生活しながら倒れていった人たちなのです。

   大阪市が野宿生活者や支援をする人たちとの話し合いを拒み、力づくで強制排除を行い続けるのなら、私たちは怒りをもって抗議し続けます。現実に生きている存在を無視し、“テントのひと張り”“ベニヤの小屋の一個”としてしか野宿生活者を扱わないのなら、確かに私もそこにいる“この世に存在しない者のひとり”として抗い続けます。

’07418日)

 

3.陳述書(西成公園)

新里良光

この法廷の裁判官や検察官にしたって、やはり今も覚えていると思いますが、今年25日のこと、大阪市は行政代執行の手口をもって、それまで長居公園で生活をしていた野宿労働者のテントを潰し、その人らを一斉に公園から叩き出しました。

ただ、ここでの裁判官や検察官にしても、このことだけはまだ知らないでしょうから、この際、敢えて私からそれを伝えておきたいと思います。

それは何かというと、この間、大阪市が長居公園から叩き出した労働者のうち、藤田さんという名前の人についてです。

大阪市は、藤田さんを長居公園だけではなく、去年1月にも同じように行政代執行をもって大阪城公園から叩き出していたのです。

このように、大阪市は、行政代執行のために大阪城公園から長居公園に引っ越した藤田さんを、また行政代執行でそこから叩き出したというわけです。

私が伝えたこの事実につき、大阪市のいわゆる野宿者対策に則して、今もって私たち3名を大阪拘置所に放り込み続けている検察官や裁判官において、どんなふうに捉えるかは、私にもおおよそ想像することができます。

ただ、仮にそうであったとしても、今の私としては、次のことだけはどうしてもこの場で私を裁く裁判官に言っておきたいのです。

野宿労働者の多くの人は、これまでもずっと「国や大阪市が真面目に失業対策事業に取り組み、今の特掃仕事だって予算をもっと増やしさえすれば、わしらだって何も好きこのんで野宿してることないんだ。」と主張してきました。

大きくは、賃金仕事にありつけないところから、仕方なく公園などでテントを張って生活しているだけなのに、大阪市はこの間ずっとその労働者らを根っから軽蔑し、押さえつけることで、自分らの思い通りに服従させようとしてきたのです。

しかし、こんな一片の道理もない大阪市の野宿者対策が、この世にいつまでも続くはずはありません。

今の大阪市の野宿者対策とそれに味方する者らは、きっといつかは沢山の人達からあれこれ罪状をあげられ、厳しく非難されるに違いありません。

今のところ、片山さん、垂見さん、私の3名は、いずれも大阪市の公園事務所職員の仕事を邪魔したとのことで、検察官と裁判官の考えとその責任において、もう半年以上も拘束され続けています。

私は、今日やっと公判が開始されるにあたって、まず何よりも、毎日が大変でしんどい中を公判の傍聴に駆けつけてくれた外の友人たちを前にして、藤田さんがこの間長居公園から叩き出される時に書いた大阪市への抗議文を改めて今ここで読み上げることをもって、私のこの場での意見とします。

裁判長ら私を裁く裁判官全員は、この藤田さんの言葉を聞いて、大阪市の対応を今一度考えてみて下さい。

〔藤田則義さん〕

私は、去年130日にうつぼ公園、大阪城公園で行政代執行にあった当事者です。

今回、また長居公園も行政代執行をしようとしています。うつぼ公園、大阪城公園と同じで、満足な代替地も与えず、シェルターや自立支援センターなどへの強要と押しつけだけで、十分な話し合いもせず、私や仲間達、そして支援者の人達の話を聞きませんでした。公園事務所の人達や行政側の人達は。私達ホームレスの人達を人間として認めないで、強制排除、行政代執行という名の権力の暴力をまた行おうとしています。私達ホームレスは、一時避難している場所が公園であったり、路上、河川敷の場所です。たとえホームレスでも、生きているからには、生活する場所、人間として生きる小屋がけ・テントが必要です。

以前、大阪城公園で生活していたときに、テント・小屋がけをしていない人が、公園事務所の人達にシェルターに入れてくれるように頼んだところ、大阪城公園でテント・小屋がけしている人しか入れない、こういうような話を何人かの人達から聞きました。

テント・小屋がけをしないで夜になると大阪城公園に来てダンボールハウスを作って寝る人達に対して何の対策もせず、私たち、テント・小屋がけをしている人達には、シェルターに入れと強要し押しつける。行政は、同じホームレスでも、こうした偏見と差別をしています。目に見えてテント・小屋がけが減れば、それでホームレスの問題がなくなるわけではありません。

こういうことからでも分かるように、収容と排除が目的だけの行政側の人達に対し、私達は一致団結し、非暴力で戦っていきます。たとえ長居公園から行政代執行、または強制排除されても、私はどこかの公園に移動し、生活していきます。私は生命ある限り、これからも強制排除、行政代執行、行政の不当な行いに対して、強く抗議、行動していきます。弱者いじめや税金の無駄遣いをやめ、失業対策にもっと力を入れてくれることを、私達は要望します。今からでも遅くない、長居公園世界陸上大阪大会のための工事名目の不当な追い出しをやめて下さい。

行政側の人達はもっと話し合いをしようではないか。

本当にこれでよいのか、頭を冷やして考え直せ、行政側の人達よ。

以  上

’07418日)

 

4.陳述書(西成公園)

片山光昭

公園や河川敷などで、テントや小屋掛けで暮す人たちも常に追い立ての圧力に曝されている。

実際に行政代執行手続きや、あるいはそれさえなしに、テントや荷物を撤去されている事実が多数ある。

ホームレスには、ほんの数時間さえ、安心して、身を横たえる場所すらない。また、夜、身を横たえて眠りに就き、夢を見る場所も無い。どんな動物にも、己の体を横たえ、眠ることが出来る「あなぐら」があるが、ホームレスの人達にはそれさえない!

くしくも、西成公園で抗議行動があった昨年612日、同日の、笹島労働者会館広報に野宿者Aさんの次のような声が掲載された。

「あなぐら」

動物でも、夜、安心して眠れる「あなぐら」がある。

ホームレスには、安心できる「あなぐら」が無い。

荷物もダメ、小屋もダメ。

これでは「死ね!」といっているのと同じ。

 

もうひとり、大阪の野宿者でホームレス詩人のたちばなやすずみさんの詩集「野宿生活・春夏秋冬」から紹介します。

                         「地球にねてる」

           野宿者は怠け者ではない。一生懸命生きている。

           好き好んで野宿しているわけではない。

           日雇い仕事にいければ行きたいのだ。

           仕事が極端に少なくなり、一部の人しかいけなくなってしまった。

           日雇いの労働条件はどんどん悪くなっている。

           屈辱的な業者の対応。

           日雇い仲間との仕事の奪い合い。

           そんな仕事の奪い合いの争奪戦に敗れた。

           収入がないので野宿している。

             他人を蹴落としたり、不法な行為をしたり出来ない、要領の悪い、気の弱いうまく立ち回れない、そんな人達が賃労働に頼らない生活をしだしたのだ。

             ―やがて公園から追い出されるだろう。

              そのとき私はまた何もかも捨てて、どこか地球の上で寝ているだろう。

              地球に寝て、夜空の星を見て・・・・・

 

 また、谷川俊太郎がホームレスの男を歌った詩も紹介します。

                            「そのおとこ」

             「ひとびとは/まるで/そのおとこのことなど/

             このよにいないかのように/まっすぐまえをみつめ/

             いそぎあしで/とおりすぎていゆく/ひとびとが/

             ゆこうとしているところは/いったいどこなのか」

 

 日本で野宿している人々のうち、公園などにテントや小屋を建てて暮している人は、実は少数派だ。

 多くの人がテントなしで夜間のみ路上にダンボールを敷いて寝ている。熟睡できる時間はほとんどない。

 それは、テント無しで野宿する多くの人々に共通することだ。

 冬の寒い時期は明け方近くなると寝ることもできないほど冷え込み、夜が明けるまでぐるぐる歩き回る。

 朝になれば寝床を片付け、跡形もなくきれいにして立ち去る。

 こうした人々がどれだけカウントされているのだろうか。

 数えられることもない生。それが日本の野宿者だ。

 ホームレスの人々の存在は、まだまだわれわれの世界からは見えない場所にあるのだ。

 

 今回、私は威力業務妨害という罪で起訴されています。

 私は、そのとき現場にいて、行政の職員に抗議をしたのは事実です。ただし、私は新里さんや垂見さんと共謀したことはありませんし、その態様については、起訴状のとおりではありません。わたしは正当な抗議をしたと考えています。

’07418日)

5.陳述書(西成公園)

垂見徳仁

1 今検察官が言った日時に、その場所にいたことは争いません。

  しかし、新里さん、片山さんと共謀などしていません。また、今検察官が言ったような妨害行為もしていません。

  私は、大阪市の職員が野宿生活者に嫌がらせをすることに対して、口頭で、正当に抗議をしただけです。

2 なぜそのような抗議をしたかについて、事情を述べます。

  2006年1月、舞洲の“自立支援センター”という野宿生活者の収容施設が開設になりました。

  舞洲の収容センターが開設されるのを待っていたように、大阪市は公園・路上・駅前・高架下・河川敷・歩道橋下などで生活する野宿生活者への強制的排除を強行して来ました。まるで、言い訳ごとが用意されるのを待っていたかのようにして。“支援センターがあいている”“定員がまだあいている”と。定員を空けておく事が「支援センターをつくったから」「支援センターがありますから」と言う、世間やマスコミ向けへの排除へのかくれみのとして使われ、解決へ向けての本質のありかを探る努力をごまかす小道具に使われています。

  現に、ウツボ公園の行政代執行以後、暴力的な野宿者の排除が続けられています。約30人の野宿生活者を排除した天王寺公園正面入口南側通路をはじめ日本橋公園、関谷町公園、愛染公園などで、テント小屋掛け約100軒が排除されてきました。代執行の手続きもとらず、工事の予定もなく、ましてや十分な話し合いもない。あったのは公園事務所職員が複数で取り囲み、テント撤去の「承諾書」にサインを強要し迫るという「説得」という名の「脅迫」だけだった。そこには彼らの言うところの「聴聞」すらありはしない。これは行政による「襲撃」です。日本橋公園では、5月2日に公園事務所の職員が大挙して押しかけ、テントの中で朝食をとっている住人を引き摺り出してテントを潰した。テントにあった生活用品はもとより、現金や友人の遺骨を入れた入れ物すらゴミとして処分してしまった。この「襲撃」は代執行の手続きをとらずに行われているのです。

  野宿生活者を暴力的に排除しながら、かくれみのとして使われる舞洲の「支援センター」は、舞洲大橋を渡らないと人里にも行けない隔離された収容施設です。滞在期間は半年程度で、じいさん、ばあさん、体の弱いものたちは、たとえ入っても再就職先など見つかりません。収容施設を出ても仕事がない、その時住まうところがない、テント小屋は潰されて戻るところがないのです。収容施設ではダメ人間扱いを受ける。就労収入は、すべてセンターがあずかり金銭管理され、交通費昼食代は借金になり、収入で清算する、飲酒は禁止され、相部屋で規律も不評で、収容のための収容施設です。

  大阪市のやり方は、大阪市の用意する「自立」しか認めず、それに乗れないのなら様々な人権が剥奪されてもかまわないと言っているに等しい。野宿生活をしている者は、自らの金銭を管理できない。野宿生活をしている者は、社会的通念がないから、生活の常識を身に付けなければならず、共同生活の体験を経ねばならない。個的な生活空間ではなく、規則正しい生活の下で管理されなければならない。と言っているようなものです。

  いったい何の根拠をもって人をこのように無能な者とした扱いをするのだろうか。いわゆる社会参加のためという言い分のもとに市民社会の生活空間の場所から隔離したうえ、更に意図的になぜもこうして人格的な隔離をするのか。いわれるところの“われわれの健全な社会通念”の内実として行政業務に携わる市と議員によって選別がなされるとき、市と議員による日々私達が目にするところの犯罪だけでなく、隠匿・捏造・談合・八百長・粉飾・偽装・改ザン、等々の表出されるニュース記事の現実のみじめな姿を私達はどう受け止めたらよいのか。

  自立支援センターに収容されている人達は、大阪市によって年齢的・肉体的に”労働に耐え得る“と選別され、就労可能と判断された人達です。公園・路上・河川敷から排除されたその他の人達はどうするのです。大阪市から自らの意向に従った、労働可能な選別された者以外の、じいさん、ばあさん、身体の弱い者達は、排除された後どうするのです。

  大阪市のいわゆる「対策メニュー」を選べないでいる人達は、大阪市にとっては存在していない人達ということなのです。これらの行為が世間向けには「自立支援センター」への入所のすすめとして説明されているのです。

  長居公園で生活していた仲間が的確にこう言ってます。「野宿者の強制排除は行政による殺人行為である。自立支援と称し、クモの糸を垂らしたフリをしてそれを利用しない野宿者には『行政は面倒見ませんよ、死んでもかまいませんよ』と宣言することである。」と。

  眼の前の現実として確かに存在している人々の、存在と人格を無視したところで行なわれ、人をして、価値ある者とそうでない者とを選別していく、見込みのある者にだけ声を掛け、他の者は存在していない者として扱う施策の術として執行される収容所なら、ないほうがよい。

  その意味で、『ないよりはあったほうがよい』という立場に私は立たない。「それなりの成果をあげていることも認めることができる」という立場には立たない。

  今回、日本橋公園を強制的に追い出されて行き場をなくした野宿者を大阪市は西成公園からも追い出そうとした。そして、小屋を勝手にこわした。

  私はそういう大阪市のやり方に抗議をしたのです。

以上

’07418日)

 


 

1.最終陳述書

 垂見 徳仁

 この4月に、1月に実施された第2回「ホームレスの実態に関する全国調査」の結果が公表された。それによると、大阪市内のホームレスの数は4069人で、前回比38.4%減少であると。その内、公園では56.1%、路上では38.8%の減少であると示されていた。また、1月段階での公園での野宿生活者のテント・小屋が、およそ650700であると同じ時期の毎日新聞発表の記事も見られる。

 

 大阪市が、公園、路上、そして河川敷から排除し、立ち退かせた野宿生活者は何処へ行ったのだろう。私達には、大阪市がこの街中から排除・立ち退かせた者達に対して、身を横たう場所も、そして生きていく手立ても何一つなされぬままに、ただただ退去、排除が強行されているとしか見えません。

 

 去年の1月、大阪城公園、うつぼ公園におけるバラ博等のイベント開催を名目にした、行政代執行による野宿生活者の排除と相前後して、中之島から大川端にかけての、「一本1万円、私の桜」の植樹キャンペーンが展開されました。建築家の安藤忠雄氏を担ぎ出して、銀橋の所の造幣局から都島橋、毛馬橋の大川端右岸(北岸)を中心になされました。当時、造幣局前には70張前後の、そして毛馬橋までの公園には60ヶ所前後の野宿生活者のテント小屋がありました。

 また同じようにして、今年2月、「世界陸上開催」を掲げて、長居公園で生活している野宿生活者への、行政代執行が強行されました。そして、それと相前後するように、アートコーポレイションの寺田千代乃さんの音頭とりの形で、「美しい大阪をつくる100万本のバラの会実行委員会」が活動を始めました。その最初に行った所が、淀屋橋から肥後橋にかけての、土佐堀川沿い、土佐堀通りの“住友村”の前の歩道上での、路上生活者を退去させた後におけるバラの植樹活動です。そこには、1516軒の野宿生活者の小さなテント小屋が、低い植え込みに埋もれるようにしてありました。

 

 また私達が不当に逮捕拘束された昨年の9月に、堂島川に懸かる日銀裏のガーデンブリッジ上で「八百八橋おそうじ隊」なるイベントがなされ、地域の小学生の子供達が出席させられ、“お掃除”がなされました。この橋の上にも、雨を避けるようにして1号線の高速下につくられた小屋が7軒あり、また橋を降りたすぐわきのダイビル前の植え込みの陰に、4張のテントがありました。

 

 そしてこの6月より、水都大阪の掛け声に伴って、中之島・大川端沿いの何ヶ所かに、水上バスの発着所増設と剣崎公園の整備が声高になっています。この裁判所の正面にも船着き場を新設する話があります。ついこの1月、私達の公判が始まったときは、植え込みの所と下の川縁のテラスの所に15軒程の野宿者のテントがあったはずです。また、その計画では、京阪天満駅の北側大川部分を掘り下げ、船着き場と改札口を繋ぐ地下連絡通路を作る発表が先日なされています。大阪市民にはあまり知られていませんでしたが、京阪天満駅のビルの中には、「ホテル・キャスル」があり、この営業が大阪市の出資でなされておったのです。毎年10億円〜12億円程の持ち出しであって、それを今年限りで撤退し、京阪に譲渡するという事が4月か5月の紙上に発表されてました。

 この天満駅の、78mある大川端沿いのコンクリート壁沿いにも、30数軒のテント・小屋で生活している人々がおりました。

 また、天神橋下の螺旋階段の部分から、バラ園の渡り橋の植え込みまでの剣崎公園には、今でも80ケ程の小屋とテントがあり、野宿生活者が暮らしているはずです。

 

 これら総べての活動が、野宿生活者の排除・退去の圧力と重ねられたところで行われている。野宿生活を余儀なくさせられている者が、身を横たえて雨風をしのぐ場所を提示することもなく、行政によって強圧的に行われているこのキャンペーンは、民衆によって民衆を排除・放逐するという姿をとっています。市民が行く場所のない者達、生活の手立てを失っている者達を、更に追い立てていく、という構図を、行政によって取らされています。このことは市民にとっても、追い立てられる野宿生活者にとっても、これは人間性への侮蔑です。行政によって虚構化された市民参加という姿の中で、市民そのものが抑圧する者として、野宿生活者の前に立ち現されてしまう。行政はこの対立の構図をもって排除と退去を押し進めようとしており、休みなく、そう、花壇の花を植え替えるように、次から次とイベントを繰り出して、市民の実際生活を虚構化して行く。これは、人を物と同じように淘汰の対象にしてしまい、人間的な思い遣りや尊厳といったものを失わせてしまう、人間性の衰弱を、一般市民にも強要していることと同じです。

 

 大阪市によって排除、立ち退かされた者達は何処へ行くのか。大阪市は知っている。釜ヶ崎に1250人分の無料宿泊ベッドがあることを。もうすでに、そこが満杯である事は、大阪市にとっては知ったことではない。毎夕、一辺100mもあるセンターの周りをぐるっと取り囲んで並び、100人以上のものが、毎夕アブレてシェルターに泊まれないでいることなど知ったことではない。更に、公園を追われ、路上のテントを潰された者が寄って来て、ますます並ぶ者の数が増えたとて、知った事ではない。大阪市にとって重要な事は、釜ヶ崎に無料宿泊ベッドがあるということだけなのだ。

 大阪市は知っている。釜ヶ崎に行けば、一日一食はどこかの炊き出しに出会えることを。或いは、釜ヶ崎の近辺を上手に廻れば、一日二回は食べることが出来るかも知れないことを。釜ヶ崎では主としてキリスト教関係者によって、また、篤志家の人達、或いは労働運動や市民運動をしている者達によって、どこかで炊き出しが行われている。大阪市は、そのことをよく知っている。だから、釜ヶ崎へ行けば、なんとか喰いものを腹に入れられることを、そして運がよけれりゃ、ベッドに寝れると思っている。

 だから、公園の小屋を、路上のテントを潰されたものが、“何処に行けばいいのだ”と詰め寄っても、うしろを向いて、ニヤついている。むしろ大阪市は、路上で生活している者を、公園で生活している者を、釜ヶ崎へ追い込もうとしている。

 

 大阪市によって排除され、立ち退かされた者達は、何処へ行くのか。

 

私達は

街の中を、少しばかり気をつけて歩いて見るといい。

高速道路の歩道脇が

 漬物石ほどの大きさの石で敷かれ、コンクリートで固められているのが見えるだろう。

 歩道橋の階段の下に

 あんなにも大きな岩が

 ゴロン、ゴロンと置かれているのが見えるだろう。

 なんだろう、このベンチは。

 手摺がふたつもあいだにつけられ、

 三等分に区切られてしまっているではないか。

 街のあちこちで

 意地の悪い、こんなアートに出会えるだろう。

 

 わたし達には、身を横たえる場所がない。

 

2.最終陳述書

稲垣 浩

勾留理由開示公判は被疑者を勾留するか否かの重要な公判だと考えます。裁判官は手元にある資料をすべて開示すること。その上で、被疑者の拘留が正当なのかそうでないのか裁判官自ら明らかにすべきと考えます。

 ところがほとんどかいじせず、警察官や検察官の作成した資料を是として一方的といっていいほどにその資料をうのみにして拘留を決定してしまいます。これに対抗する手段を、拘留中の私は行使できませんせした。

 今回私が獄中で読んだ検察官提出の大阪市職員谷口博氏の陳述は明らかに作為が感じられます。4月27日当日、私が谷口氏の肖像権の侵害行為に対して抗議し始めてから、谷口氏と垂水氏が向き合っていた現場に到着するまでの間、谷口氏の言葉を借りれば「ずっと付きまとっていた」ことになっています。しかし私のビデオでは、見てもらったら分かるように、私に『何の作業撮ってんのじゃ』と抗議されてから北へ歩き始めたころより、垂水氏と向かい合ってビデオ撮影をしている谷口氏を発見し、垂水氏が撮影されないようにビデオカメラのレンズの前に手を出したときまでの約3分52秒間、私は谷口氏の近くにいません。それなのに勾留理由開示公判時に裁判官の手元にある資料では、この間、ずっとつきまとっていたことになっているのです。大阪市職員の山岡証人もそれに追随した調書を作成しています。

 裁判官の私に対する心証はこの部分で悪くなったと推測されます。未に覚えの無いことを、あたかもやったように作成された調書に驚きを感じています。大阪市という権力と警察という権力が組めば、白を黒と言いくるめることも容易にできるんだということを改めて知りました。要するに権力者はなんでもできるんですね。

 真実を明らかにして判決を下すのが裁判官であるのなら、勾留理由開示公判において、裁判官自らが積極的に真実を明らかにすべきです。それを「捜査段階だから言えない」では真実が明らかにならず、被疑者の防御権の行使ができません。そのことを強く感じた裁判でした。

 肖像権の侵害行為に対しては「写したらあかん」と言っても侵害行為をやめなければ意味がありません。カメラのレンズを塞ぎ、写されまいとするのは当然の権利であると考えます。私は谷口氏の持つビデオカメラをつかんだこともなく、手首をつかんだこともなく、体をフェンスに押し付けたこともありません。ただひたすら、彼の持つレンズを手のひらでふせ塞ごうとしていたのです。彼の大げさな言動にも注目していただきたいと思います。

 そもそも人民にとって監視されなければならないのは権力を持ったものであるはずです。権力に暴走をさせないために人民大衆による権力監視が必要なのではないでしょうか。 

 私がビデオカメラを持つようになった理由は、警察権力の暴力や、嫌がらせの言動等から身を守るということでした。昨年4月27日撮影の、私や市職員の谷口氏のビデオフィルム再生で分かるように、清掃作業を私たちが妨害している場面は全くありません。私たちは大阪市清掃局が行う「そうじ・薬剤散布」と称し、野宿生活をしている人たちのテント(家)をつぶしたり、生活必需品を「ゴミ」として廃棄されることをくいとめるために、2か月に一度行われる汐見橋駅近くの清掃作業の監視に出かけておりました。

 公判前整理手続では証拠として提出できませんでしたが、汐見橋での清掃作業中、テントがこわされ、ゴミとして処分されてしまう場面や生活者が干していた毛布をゴミとして処分しようとするのを私の抗議で中止する場面等のビデオテープがあります。

 こうした私たちの監視活動や抗議をこころよく思わない大阪市は、ビデオカメラを持参するようになり、作業現場より遠く離れてビデオ撮影をするようになりました。時として作業現場が見えなくなるほど離れてビデオ撮影するようになりました。私たちの顔がビデオ撮影されないためには、ビデオカメラを持つ大阪市職員の後ろに立たねばならず、本当にゴミを片付けているのか、テントの人の生活必需品まで持って行っているのかが、分からなくなってきました。大阪市の職員は、ビデオカメラをそういう意図をもって使うという手法を考えたのです。また、今回抗議のきっかけとなったことは、私や支援者を「作業を撮っている」といいながら、作業と私たちを同時に撮るというビデオカメラの使い方・手法を考えたのです。当日撮影した私のビデオテープには、市職員の谷口氏が私の方にカメラをむけた場面が7回あります。こうしてことある度に私や支援者を撮影していたのです。決して許される行為ではありません。

 私は昨年1月30日大阪市は靱公園にたてられた野宿生活者のテントをつぶすための行政代執行という暴挙を行いました。私は抗議行動中にガードマンと私服警察官によって押し倒され、そのはずみで右足首の腓骨を骨折し、仲間が呼んでくれた救急車で病院に運ばれ、明くる日手術を行い、1か月ほど入院し、4月27日は骨をスチールで固定しておりました。私を押し倒して傷を負わせたガードマンや私服警官は一人も逮捕されておりません。不公平を感じています。 

 不当に逮捕され拘留された7ヶ月近くの月日を取り返すことはできません。

大阪市と警察と検察が一体となって行った権力犯罪を断罪してもらいたいと思います。

‛07711日)

 

3.最終陳述書

片山光昭

 「希望を託せる支援システムの構築を!」

07年4月27日の新聞(産経)報道によると、大阪府のホームレスは全国最多の4,911人(平均年齢57.5歳)を確認したとありますが、これは路上・野宿者のみを目視によりカウントした数であり、シェルター宿泊者、自立支援センター入所者、そして、流動層とよばれる飯場や簡易宿泊所の人達、また移動層とよばれる夜と昼の居場所がちがうだけで毎晩同じ場所に寝に帰ってくる人達・・・を推計される数だけ足しても、路上・野宿生活者と同じ数の人々がカウントされ、結局一万人前後の人々がきわめて、かぎりなく、ホームレス状況にあるということです。

日本の高度成長を労働力として支えた日雇い労働者にも高齢化の波は押し寄せています。

ホームレス・野宿者の3分の2以上が50歳から64歳までの人達です。就労と高齢者福祉の谷間の世代が野宿に至っているということです。野宿に至った経緯を聞くと8割以上の人が失業したためだといいます。

大阪は日本一野宿者・ホームレスの多い街と言われ、この原因として一番大きいのは釜ヶ崎(寄せ場)の存在です。

昨今の寄せ場は公共事業が減り、派遣会社のとう録している若い労働者に土工等の仕事が流れています。釜に来た現金求人も釜の外からやってくる若い労働者が就いてしまう。高齢者は、ほとんど仕事に就けないのです。

失業とは、生活の手段を奪われるだけではありません。仕事を失うことによって自分に自信を築くチャンスまで奪われてしまうことなのです。

野宿者・ホームレスの支援について

公園野宿者が公園を終の住み処しようとか、安住の地であるとか、と、思っている人は一人もいません。生きていく為に仮住することを余儀なくされているのです。行政は支援活動をおこなう諸団体と話し合いの場を設け、ホームレスから脱却できる支援と有効な事業を行政と民間との共同作業として立ち上げる努力をしてほしいと思っています。ホームレスの人達は多様です、そのために充分な選択肢を用意することが必要です。

再び路上に戻らなくてもいいように長期にわたってサポートできる体制を整えてほしいと思います。

いくつになっても、誰にでも再チャレンジ可能な社会システムの構築を!願っています。

ホームレスの“やる気”をおこさせる支援システムの構築を!願っています。

「希望を託せる支援システムの構築を!」

公園野宿者は政治運動をするために公園にいるのではありません。生活をするためにいるのです。

その2

 これからは若年層の野宿者・ホームレスが増えると言われています。

働く貧困層(ワーキングプア)について

プレカリアートと呼ばれる不安定な生活を強いられる非正規雇用者が急増しています。

厚生労働省が06年12月1日に発表した調査では、雇用者全体に占める非正規社員の割合は33.4%と初めて3分の1を超えた。正社員の3340万人に対し、非正規社員は1663万人。この10年で正社員が460万人減り、非正規社員は620万人増えた。15〜24歳では2人に1人が非正規社員だ。90年代には8割だった大学卒業者の就職率は2000年には6割を切った。中卒・高卒はさらに厳しい。否応なくアルバイトや派遣・契約社員といった非正規雇用の道を選択せざるをえない若者も多いのです。

もはや自己責任とか自助努力だけで解決できる問題ではありません。

日雇い派遣労働者は電話一本で呼び出される意味で「ワンコール・ワーカー」ともスポット派遣とも呼ばれる存在なのです。

スポット派遣で働く人の年収は平均150万円ほど、健康保険も失業保険も年金も退職金も、ボーナスもなく、何年経っても昇給もありません。働いても働いても、生活保護以下で貯金はありません。

家賃が払えずにホームレスとなり「完全個室・宿泊可」のマンガ喫茶やネットカフェを転々とする20〜30代の若者を「ネットカフェ難民」と言っています。

ノー・モア ホームレス!ノー・モア 野宿!

「社会が若者に夢を与え、明日を信じることができる国であってほしい」

 

4.最終陳述書

新里良光

 私は2007418日、公判が開始されるにあたって、裁判官らに、大阪市が200725日に強制排除を行った長居公園での野宿労働者のひとり、藤田さんの大阪市への抗議文を読み上げました。

 今回は2006130日に大阪市によってうつぼ公園から強制排除されたあと、住む場所を求めて長居公園に引っ越さざるをえなかった一女性労働者、松本さんのことを裁判官らに伝えます。

 松本さんは大阪市によってうつぼ公園から強制排除されたあと、なんとか長居公園に移り住んでいたのですが、先に私が伝えた藤田さんの例と同じように、約1年後の今年25日には、大阪市によって又その長居公園からも強制排除され、そこから出て行かざるをえませんでした。

 現在松本さんは藤田さんと共に、大阪市によるうつぼ公園・大阪城公園での強制排除の違法性を問う国家賠償請求裁判を取組んでいます。

今日検察官によって片山さん、垂見さん、私への論告求刑がなされたのですが、私は松本さんの国家賠償請求裁判での意見陳述書を公判の傍聴に駆けつけてくれた野宿労働者とその友人たちを前にして読み上げることをもって、この場での私の意見といたします。

裁判長ら私を裁く裁判官全員は、先に私が伝えた藤田さんの大阪市への抗議文と合わせて、私がこのあと読み上げる一女性労働者・松本さんの意見陳述書を聞いて、大阪市の失業−野宿労働者への対応を今一度考えて見てください。

〔松本さん〕

私は、昭和16年にO県のO市で産まれました。20年ほど前に大阪に出てくるまでは、O市で生活していました。

山口では会社員とか様々な仕事をしましたが、仕事がなくなったので、一人で大阪に出てきたのです。皿洗いや清掃、飯場のご飯炊きの住み込みの仕事が見つかり何ヶ所かを転々としましたが、仕事がなくなり、梅田の駅構内で野宿せざるを得ないことがありました。数年前のことです。

その時はすぐに住み込みの仕事が見つかり、野宿しないですみましたが、だんだん野宿生活が長くなり、2005年の秋ごろから、現在まで野宿生活を余儀なくされています。今でも、住み込みの仕事があれば、やりたいと思っています。生活保護を受けなくても、何とか自分で生活出来ますので、生活保護を申請する気はありません。今は長居公園に住み、アルミ缶を集めたり、西成の高齢者清掃の仕事を月3回やっております。

梅田の路上で野宿を余儀なくされていたときには、毎日4つの荷物を持ち歩かなければなりませんでした。肩に背負い、両手もふさがっていました。荷物の保管場所もないので、アルミ缶を集めることもできませんでした。夜は、シャッターが閉まった駅構内の外に、ダンボールを敷き、荷物を置き、そのうえに覆いかぶさるように寝ていました。怖いという思いもありましたし、荷物がいつとられるかもわからない不安があったのです。人通りが途絶えることもなく、物音がするたびに、襲われるのではないかと不安でした。ですから、なかなか眠れない長い夜でした。そういう注意をしていても、ちょっとしたすきに、荷物を全部とられてしまったことがありました。本当にショックでした。

収入がありませんから、生活は本当に大変でしたが、炊き出しがあれば、炊き出しに並んでおりました。そんなとき、野宿者支援の夜回りをしている○○さんという女性に声をかけられ、うつぼ公園に行けば、テント小屋に住めるといわれ、200512月にうつぼ公園に引っ越しました。

テント小屋では、寒さを凌げるようになっただけでなく、荷物を置いて、梅田までアルミ缶を集めにいけるようになりました。攻撃される危険もなくなり、夜も安心して眠れるようになりました。テントの中に集めたアルミ缶を保管することもできました。ガスコンロで食べ物を温めたり、お湯を沸かせるようになりました。料理も作れるようになり、料理の好きな私には大きな喜びでした。

ところが、大阪市は、私たちのテントを本年の130日に強制撤去しました。私はその日、自分のテントが壊されるのを見ていました。やっとのことで、安心して住める「我が家」が見つかったのに、無残に壊されたことは、何ともいえない気持ちでした。

今は、長居公園でテント生活をしています。自炊ができ、アルミ缶も集められ、安心して眠れるテントを離れて、施設に入る気持ちはありません。

本件について、私たちの生活に目を向けた審理をお願いします。

以上


 

住民票問題の経過

ふるさとの家 マーコ

 200612月から、釜ヶ崎3施設の住民票が問題になっていますが、そもそも住所を持てない人たちを公園や路上、シェルターなどに放り出し、十分な施策を行わない大阪市の問題なのです。今、大阪市は公園の強制撤去を強行し、住民票削除を行おうとするなど、平気で人権侵害を繰り返しています。私たちは弱者いじめをする大阪市のやり方に強く抗議しています。

 

「住民票問題」の経過

 年々、特別就労対策事業(55才以上の釜ヶ崎労働者のための清掃事業、以下特掃)の申し込みの年齢確認などが厳しくなり、2004年より労働者の住民表設定を手伝う「住民票設定プログラム」を協友会で開始しました。

 ふるさとの家が窓口となり、立て替え金の取り扱いや、郵便のやり取りをしてきました。当初、住民票については「特掃のための人はNPO釜ヶ崎、白手帳の人は釜ヶ崎解放会館(以下解放会館)」に置いていたが、途中よりNPO釜ヶ崎に住民票を置くことを断られたため、それ以降は解放会館におかせてもらう人が殆どでした。ふるさとの家に住民票がある人は、年金、保険の手続きのために置いた人と就籍や失踪宣告の取消の審判をした人たちです。このプログラムで200人以上の住所設定を手伝ってきました。その中で解放会館に登録する人が多いのに西成区役所は何も言わないのは何故か?と疑問を持ち、住民情報課で聞いたところ「建物があれば受け付ける、拒否する理由がない」との答えでした。それどころか住民票設定に行った時に本人証明にふるさとの家の利用者カードを見せたので「住所は解放会館にします?ふるさとの家にしますか?」と窓口で言われたのでふるさとの家に置いたという人もいるのです。とにかく、これまで30年近く住民票を解放会館に置くことに何の問題も無かったのです。

 

 2006125日に京都で他人の住民票を使い住民登録をした男(元福岡県警の警察官)が、6日に逮捕され、悪用された人の住所が解放会館でした。127日に読み売り新聞が「44uに3300人住民登録」と書いた記事で、経緯を知らない記者が、いかにも解放会館の住民登録が悪用するために設定されていると思い込んで取材にきた様子に、各マスコミも「架空登録」「違法登録」と騒ぎ始め、市議会議員が「他にもあるのでは」と大阪市に調査するよう要請。1221日にふるさとの家、NPO釜ヶ崎の住民票も問題と発表されました。

 

 新聞報道で「居住実態のないものは削除する」と西成区住民情報課(以下、西成区)がコメントしたことで、1218日に解放会館、釜ヶ崎医療連絡会議など賛同団体で、「これからも解放会館に住民票を置くことを認めるのか、認めないのなら代替の受け皿を用意するのか」と質問書を西成区に提出し、22日に話し合いを持ちました。しかし「住民基本台帳法に則り整備する、法に不備があることは認めるので大阪市にあいりん対策の問題として訴えていく」と繰り返すだけでした。NPO釜ヶ崎とふるさとの家も1227日大阪市市民局(以下大阪市)に要望書を出しました。112日には大阪市選挙管理委員会も過去の選挙の調査結果を出し、「問題となっている住民登録該当者の投票率は、著しく低い状況が明らかであり、選挙投票を目的として住民登録をしているものではないと考えられるところです」と発表しています。125日、西成区は法整備を理由に一方的に「居住実態のない住民登録は2月末をめどに削除する。126日から29日の間、相談窓口を設ける、住民情報課窓口を調査する」というものでした。相談窓口に行きましたが、具体的に相談にのるわけではなく「どこで寝ているか、何が困るか」などいろいろ質問するものの、最終的に公園やシェルターに寝ている人については「何もできません」「生活保護の相談なら市立更生相談所に行ってください」というだけ。簡易宿泊所(ドヤ、簡宿)に置くことを公的に認めるというので、特掃に行き、ドヤを一泊とって相談に行った人には「今日は簡宿に泊まったようだけど、普段はどこに泊まっていますか?」と質問し、正直にシェルターに泊まっている」と言わせ、帰らせるなどひどいものでした。そもそも住民票を異動できる場所がある人は転入届を書いて出し「ここに住んでいるのですね」「はい」と言えばすむ話しを、いかにも相談をしないと異動できないように思わせて、西成区はアリバイ作りをしました。

 

 そして「法の不備は認める、住所を持てない人がいることについて国に話しを持っていく」とも言っていた西成区でしたが、217日、総務省(国)に今回のことについてどういう考えか聞きに行ったところ、「住民基本台帳法の運用については各自治体の判断すること、国は口出しできない、今回の問題も知らなかった。みんなが総務省に来ると言うので大阪市に電話をした」という話しでした。大阪市の判断で削除しようとしているのに「国と法整備の検討をする」と嘘までついています。

 

署名活動

 「このまま住民票を削除されるわけには行かない!」と署名活動や情宣活動を解放会館と失業と野宿を考える実行委員会のメンバーが中心に行ってきました。226日からは大阪市役所前で抗議の泊まり込みをし、東京や名古屋の仲間も駆けつけてくれました。大阪市は「要望書の回答に時間がかかるから待ってくれ」といいながら、27日、関市長自ら「32日に異動に応じない住民票については消除する」と記者会見をする横暴ぶり。しかし今回、Kさんが「選挙権剥奪は違憲」と裁判を起こし、31日に高裁で仮差し止めを勝ち取りました。32日朝には賛同する議院の皆さんも要望書を出してくれました。

 

 32日昼、大阪市は「32日に消除はしない。3週間程度、簡易宿泊所に住民登録できることを周知徹底し、相談窓口を設置する」と回答しました。相談窓口の具体的な内容について尋ねたところ「これから西成区と調整する」というので「具体的に決まってから3週間にするべきだ」と話したが、「今日から3週間」というので、すぐに区役所に相談に行きました。西成区は「大阪市から3週間延期をする話は聞いたが相談窓口については何も聞いていない」というだけで、当事者がシェルター(釜ヶ崎内で1泊できる)に置けるのか尋ねたが「帰りたい時に帰れないところなので認めない」とのこと。そしていろいろ質問する中で「今、3件については住民票の写しは、裁判資料など特別な場合以外は交付していない」と言われ愕然としました。削除はしていないが凍結しているのです。

 大阪市に新たに32日付で要望書を出し、3週間後どうするのかなどについては10日までに話し合いを持つと大阪市が約束しました。

 

 36日、西成区役所は「簡易宿泊所に住んでいる人は住民票を移すように」と書いたポスターを持ってきました。相談窓口の内容について尋ねましたが「大阪市から何も言ってきてない」と逃げ、大阪市も全く動いている様子がありません。住民票凍結についてSさんが区役所に確認に行ってくれ、最終的には「高裁の判決までは交付していなかったが、今は本人の意思で住んでいると確認できれば交付している」と態度を変えたようです。

 

 簡易宿泊所(ドヤ、簡宿)に住民登録を公に認めるという話についても新聞報道が先で、区役所から簡宿側に何ら話もなく簡宿組合も苦慮したそうです。しかし、簡宿組合は住民票を必要としている労働者の生活と権利を守るために区役所と話し合いも持ってくれました。労働者が簡宿に住民票を置いたとしても、帳場の人が「うちは知りません」と区役所にいうと消除の対象になる可能性もあるので、「宿泊証明」を発行し、それを持って区役所で住民登録した人については簡宿が把握しているということで、消除の対象にはならないように考えてくれました。しかし「ドヤに1泊でも泊まれば住民票を置けるのか」との問いに、区役所は「簡宿に1泊したから住民登録させてほしいといっても受け付けない。今日ここに泊まりました、これからもここに住み続けますとの意思確認が要る。それが結果的に住めなかったとしてもそれにはとやかく言わない」と屁理屈を言っています。そんな中でも労働者にとって不利益になることがないように、各簡宿に「宿泊初日」からでも宿泊証明をだしてくれるように簡宿組合がお願いをしてくれました。大阪市や西成区は「簡易宿泊所に住民票を公に認める」と言っただけで、その後どんな問題や混乱が起こるかなど何も考えておらず、簡宿に問題を丸投げしただけなのです。

 

 基本的に住民基本台帳法は住居のない人を想定していないのです。でも現実にドヤにも泊まれず、公園や路上、シェルターでしか寝られない人たちがいるのです。大阪市のやり方は間違っています。

その後

 上記の文書を協友会の支援者に送り、署名の協力を得ました。その後2週間、大阪市前で先遣隊、続いて失業と野宿を考える会が中心になり第二次野営闘争をし、削除をやめるように大阪市に申し入れを何度も行いました。労働者自ら、処分差し止めをして仲間のためにがんばりました。簡宿組合からも最低一年は周知期間が必要だと意見も出ました。しかし大阪市は自立支援センターやあいりん対策などをやるべきことはやっていると、強硬に3月29日に2088人の労働者の住民票を消し去りました。30日になって「3月29日以前に住んでいた居所が確認できれば、住民票回復(消除を取り消す)することができる」と言い出しました。

 

41日に解放会館で住民票回復のための相談を受け付けました。差し止め判決を勝ち取ったKさんが相談に来た一人の青年の処分差し止めを手伝いました。彼はドヤを転々としていたKさんと同じような環境でしたが、負けてしまいました。しかし、その判決の中で大阪市が「選挙当日の投票締切時間まで住民票の回復を行うので選挙ができない理由にならない」と主張し、それに対して裁判所は「ドヤを転々としていること自体定住とみなせず、そのような安易な回復方法を行い投票すれば選挙無効の原因になる可能性があるので、申立人が選挙権を行使することはきわめて困難」というような判断を下しました。

 

労働者の住民票が消されたことに対し大阪市と闘うことは何でもしようということで、先遣隊(行動隊)を中心に市の更生相談所に住民票をドヤへ置くためのお金を貸し付けるように毎日押しかけました。そしてKさんが「大阪市は29日以前に住んでいた証明ができれば住民票を回復し選挙にいけると言っているが、選挙にいける要件は3ヶ月住んでいないといけない。このやり方では10日間しか住んでいない人でも選挙にいけることになる。裁判所も回復した人が選挙をすると無効になる恐れがあると言っている。こんなやり方はおかしい」と請願に行こうということになり、46日大阪市長室に押しかけました。大阪市は「回復した人が選挙に行っても何の問題もない」と言い張り、こちらは「そんな簡単に回復できるなら、何のために解放会館の住民登録を消したのか」「裁判所は今回、申立人は選挙できないと言っている。その他の同じ条件の人は選挙できるとい言い張る大阪市は司法も無視するということではないのか」と長時間話し合いましたが平行線でした。

 

それなら本当に選挙をいこうということになり、48日、労働者と一緒に投票所へ行き、9人が住民票を復活させ、投票しました。第二次野営の最中に処分差し止め、抗告も却下され選挙をさせてはならないと言われていた労働者も投票できました。逆に選挙までは住民票を消してはならないと差し止めを勝ち取ったKさんが市選管の伝達ミスで投票できませんでした。そして今まで投票できていたのに今回させないのはおかしいと住民票をドヤに異動することを断ったTさんが投票させなかった大阪市と新たに闘いはじめました。

 

参院選挙は投票ができるはず!

大阪市選挙管理委員会(以下、市選管)は7月初旬、「729日の参議院選挙は329日に釜ヶ崎で住民票を削除された労働者2088人も投票できる」としました。(住民票が削除されてから4ヶ月間は選挙人名簿に名前が残っている)ただし、「投票所で確認させていただく内容によっては投票できない場合があります」と条件付です。(そして周知をしていると言いながら、ポスターを街の中にちらほら貼っただけです。)

「国政選挙に住所要件はなく、そんなことは憲法違反」と失業と野宿を考える実行委員会が市選管に申し入れをし、話し合いの場を持ちました。

市選管は「選挙当日、3月29日以前にどこに住んでいたか確認する。ずっと野宿やシェルターで寝泊りの人は3月29日以前から住所(部屋)がないということで、投票してもらうのは難しい。本来ならそこに住んでないと判るとすぐに選挙人名簿から抹消する。しかし2088人の住民票を市民局が調査できないで削除したため、判断が難しく4ヶ月間残っていただけ。明らかに長期間住所がない人に投票をしてもらうと選挙無効になるおそれがある」と言い出しました。市選管自らもこの4ヶ月間本来やるべき調査もせずに、ほったらかしにしておき、当日、出向いてくる人には質問を浴びせ、選挙することを拒む姿勢を明らかにしました。

「4ヶ月間選挙人名簿に残したのは大阪市だからいまさら選挙させないのはおかしい」「それは差別じゃないか」と怒りの声があがりました。そして「少なくとも口頭で質問はおかしい。するのであればどの法律に基づいてやるのか、口頭ではなく、文書で一人一人に示すように」求めました。すると市選管は「あくまで調査に協力をしてもらうということであり、強制ではない、法律と関係ない」といいだしました。それまでは公選法の何条にはこう書いてあると法律を盾に話をしていたのに、肝心な所で法律に基づかない職務を行い、労働者から選挙権を奪おうとする市選管に「選管の仕事は選挙をさせないことが仕事なのか」「そんないい加減なやり方で選挙できる人とできない人が出るのはおかしい」と参加者の怒りが爆発しました。最終的には「3月下旬ごろどこに住んでいたかをお聞きしても、調査に協力していただけない方については、こちらとして住所があったかなかったか判断できないので、投票してもらいます。」ということになりました。しかし、質問自体をしないようにするところまで持っていくことはできませんでした。

 

投票日当日

失業と野宿を考える実行委員会は投票所前に張り付き、住民票が消された労働者が投票できるように付き添い行動をしました。投票所には20人ほどの区選挙管理委員が物々しく立っており、付き添いでいくと「投票をする人以外は入いらないでください」とみんなで取り囲み、追い出そうと必死になっていました。

選管職員をビデオ撮影していたら「投票所は撮らないでください」と言いながら、投票所の中では職員がビデオを持ってずっと撮っているので、私たちに撮るなといいながら何であなたたちは撮っていいのかと聞くと「中のことはわからない」と訳のわからない返答。

そして、投票できる人が入っても、「投票するんですか、しないなら出てください。悩むなら外で悩んでください」と追い出そうとして「何で中で悩んだらあかんねん!」と怒っている労働者もいました。それなのに、そのうしろを私服の警察官は自由に出入りさせていました。「選管のバッチもつけてないこの人は何で入っていいのか」と聞くと「関係者だからいいんです」というので関係者についてはどの法に書いているのですかと尋ねても「私にはわからないので、市の選管にきいてください」という始末。「少なくとも選管のバッチぐらいつけないと関係者だとわからない」と文句をいうと、首をひねるだけの若い職員。当の警察官はそれよりあとは外に出ていましたが。

暑い一日でしたが、「投票に来た人が追い返されないように」と10数人でずっと座り込みを続け、付き添い行動をしました。

 そして、前日に集会を開き、「住民票を削除された人も投票できる」ことを労働者に呼びかけた、行動隊のみんなも夕方には「住民票を消された人も一緒に投票に行こうと」街の中を練り歩き、三角公園で集まり、「わっしょい!わっしょい!」と6時半に投票所にきました。

 それまでは「体育館の入り口から先は入ったらだめ」と言っていたのに、行動隊が来たとたんに選管が急に門の前にバリケードを張り、一歩も中に入れない姿勢をとったので、大混乱が起こりました。そして私服警官や機動隊を近くで大勢待機させ、物々しい投票所になりました。行動隊は選管の嫌がらせや警察の介入にも負けず、集まったみんなに、投票しよう!憲法を守る人を応援しよう!飯食わせ!とアピールをしました。

 結局、住民票を消された45人が投票することができましたが、翌30日には選挙人名簿からも2088人の労働者の名前が消されました。

これからは今まで以上に労働者の権利が保障されるためどんなことができるかを考え、国や大阪市に対してぶつけていき権利を奪い返す闘いをしなければなりません。


 

 ここに載せた住民票の日録は、大阪市がいかに釜ヶ崎の労働者、そして野宿生活者を市民というより一人の人間として見てこなかったかをよく物語っています。マスコミはあたかも、解放会館や労働者が不法をはたらき、住民票を手にしたかのようなキャンペーンを繰り広げました。しかし、市会議員選挙をめぐって明らかになったのは、大阪市行政(福祉のみならず選挙権)のデタラメさです。自分たちに都合のいいときは法を盾に行政代執行を強行してきました。

 日録は、釜ヶ崎労働者のねばり強い闘いが、大阪市の不誠実さを明らかにしました。その闘いは、7ヶ月たった今も続いています。

 

住民票日録

2006年

 

126

警察官の住民票不正入手発覚

127

新聞各紙・テレビ等マスコミが大々的に報道

129

大阪市、解放会館への登録はマスコミ報道より約200人多い3530人と発表

1211

解放会館に事務所を置く釜合労(委員長は拘留中)は、労働者の諸権利を守るため

 

登録は今まで通り続けると記者会見。それに対し西成区役所は「新規転入は

 

認めない。抹消については、年金・保険の件もあり関係機関と相談する」と一歩後退

1215

大阪市会民主生保健委員会、財務総務委員会、住民票問題を討議。

1218

釜合労、医療連、長居公園仲間の会、高齢者特別就労準準備会等西成区長に

 

申入書提出。1.住民登録の新規登録を認めること。2.認めないときの受け皿に

 

ついて

1219

大阪市執行会議(市長等理事で構成)で取り上げる。西成区役所が被害者だとの

 

意見も出される。

1220

大阪市、解放会館以外にも登録場所ありと公表。社会福祉法人フランシスコ会

 

ふるさとの家27人。NPO釜ヶ崎支援機構(NPO釜ヶ崎)129人の計156人。

1222

釜合労、医療連、長居公園仲間の会、高齢者特別就労準準備会、野宿者

 

ネットワークの呼びかけで労働者、西成区役所と話し合う。

1227

ふるさとの家とNPO釜ヶ崎が市長に「大阪市が市民(釜ヶ崎労働者)の住民登録

 

問題に関して、当人たちが権利を失うことのないよう慎重に対応するよう」にと要

 

望書を提出。また25日にはNPO釜ヶ崎は法人の住民登録問題についての見解

 

を発表。

2007年

 

19

釜ヶ崎のまち再生フォーラムの呼びかけで住民票問題学習会。講師笹沼弘志

 

(静岡大・憲法学)。会場の西成市民館、労働者、支援者で満杯。

 

 

123

大阪高裁、扇町公園のテントに住民登録を認めた大阪地裁判決を「社会通念」に

 

反すると取り消す。Yさん逆転敗訴。

124

西成区役所、解放会館に立ち入り調査。労働者らが立ち入りを拒む。

125

市に対し公開説明会を要望。区役所「催告書」を持ち帰る。

25

大阪市長居公園テント村に対し行政代執行

2月7〜8日

消除撤回を求め三角公園で集会、のち区役所へ抗議デモ。区に「再催告書」を返却。

2月15日

反対署名を市に提出

 

2月16日

 

失業と野宿を考える実行委員会(失野実)、解放会館代表等が総務省と話し合う。

 

総務省「住民登録消除は自治(大阪市)の判断で国は関与しない」と回答。

 

大阪市の「国の指導で」は労働者をだましたことになる。

2月21日

労働者に強制削除の理由を説明するよう大阪市に申し入れ。

2月23日

大阪市は、労働者の申し入れには回答せず、テレビ、新聞各社に対し、3月2日

 

までに実際に住んでいるところに住民登録しなければ以後消除と発表

2月24日

市から、消除予告通知が届く

2月26日

「住民票強制消除に反対する全国集会」(呼びかけ:失野実、解放会館 

 

於エル大阪)後大阪市に抗議のデモ。そのまま抗議の野営闘争に入る

 

(座り込み・3月2日まで)。天王寺、難波等で情宣活動。

2月28日

熊野弁護士、大阪市に「住民票削除は、国際人権規約(自由権)16条・11条

 

違反と申し入れ。同日夜、第2回住民票問題学習会(講師笹沼弘志)

3月1日

大阪高裁、Kさんの住民登録削除は合法とした大阪地裁判決を取り消し、Kさんの

 

訴え「削除は選挙権を奪う」を認める判決。

 

大阪市は高裁判決を受け、全員削除(2700人)を3週間延期。しかし、3月30日を

 

市は期限としている(2006年12月19日大阪市執行会議)ので予断は許されない。

3月2日

市が延期を決定したので第1次野営闘争(座り込み)は終了し質問状を出す。

 

1.なぜ3週間の延期か2.3週間後どうするのか3.現在釜ヶ崎に不在のもの(例

 

入院、長期出張など)にはどう周知徹底するのか、一週間後に回答を求める。

 

奈良の行政書士、「職権削除を行わないよう」請願

 

*「釜ヶ崎の炊き出しを支援する会」の議員32名(国会、府会、各地市会)、住民票

 

削除について公開質問状。回答3月10日。大阪市、住民登録は、簡易宿泊所でも

 

出来ると発表。

3月8日

釜ヶ崎キリスト教協友会、「住民登録削除」で大阪市に抗議。

3月9日

市との話し合いで、簡易宿泊所側は、「住民票の件は3週間では出来ない。1年は

 

必要。2日の質問状には1.3月30日が大阪市議会選挙の公示日なのでそれまで

 

に住民票を整理したい。2.3週間後の具体策は言えない。3.ポスターなどで簡宿

 

などでも住民登録が出来るとPRする、と回答。

3月10日

公開シンポジウム「寄せ場労働者・ホームレスの「生きる場所」はどこか−釜ヶ崎

 

における住民票問題とホームレステントの強制撤去の本質について考える−」

 

(主催 大阪市立大学大学院創造都市研究科、都市共生社会研究分野)

3月19日

大阪市との交渉。大阪市は、ただ「住民基本台帳法に基づいて居住実態のない

 

住民票は削除の対象になる」と終始する。

3月20日

釜ヶ崎労働者の住民票強制削除に反対する有志一同の名で、市長に申し入れ。

 

事柄は@釜の実態、および大量登録を生み出した原因A法的側面B具体的な

 

手立ての3点、9項目について申し入れ。回答期限は3月27日。

3月21日

「投票へ行こう!社会再参加キャンペーン」実行委員会が、大阪市会議員・

 

府会議員立候補予定候補者に公開質問状を送付。

3月23日

住民票問題に抗議し、東京の全都野宿労働者実行委員会(全都実)が大阪市

 

東京事務所へ抗議申し入れを行う

3月27日

3回目の大阪市との交渉。大阪市は「住民票を置く場所が確保できない場合には、

 

選挙権を行使することはできません」との文書回答を出す。

3月28日

解放会館に住民登録をしている50代男性が削除停止を求めた裁判で、

 

28日未明大阪地裁は停止を求めた仮処分申請を却下。男性は即時抗告した

 

大阪市が日雇い労働者など約2100名の住民登録を29日に職権で一斉

 

削除すると発表。

 

 

 

 

大阪市職員が、住民票削除決定を公表

直接行動隊・日本人民委員会・釜ヶ崎労働者有志一同が市更相所長、西成区長

 

に住民票削除の件で要望書を提出。1.野宿者が住民票をおけるように簡宿(ドヤ)

 

宿泊代を貸すこと、2.1ができないなら市更相に住民票をおけるようにすること

3月29日

大阪市は、解放会館/NPO釜ヶ崎支援機構/ふるさとの家に住民票を置いて

 

いた2088名の住民登録を削除した。

3月30日

大阪市との第4回交渉

4月3日

釜ヶ崎労働者の住民票強制削除に反対する有志一同が、大阪市に住民票削除

 

された人たちの権利を回復するよう申入書を提出。

4月6日

失野実、釜ヶ崎解放会館の呼びかけで、「大阪市役所前緊急抗議集会」。

 

大阪市に抗議申入書を提出。

4月8日

大阪府/市議選投票日。当日住民票の再登録を出来た9名以外の2000名

 

をこえる人の選挙権は奪われた。高裁での住民票削除差し止めを勝ち取った

 

Kさんは市選管のミスにより当日投票できなかった。萩之茶屋投票区で前回に

 

比べ5.76%投票率がアップした。

4月13日

医療連等支援団体により西成市民館で弁護士による住民票問題等相談会開催

5月23日

集会実行委員会(日本人民委員会・直接行動隊・ふるさとの家・釜ヶ崎パトロール

 

の会・長居公園元気ネット)主催で、「俺たちの生きる権利・選挙権を返せ!

 

釜ヶ崎集会」が西成市民館で行われる。

釜ヶ崎労働者・野宿労働者の住民票取り上げに抗議する、労働者の向けての前段集会

 

(於西成市民館)

5月26日

釜ヶ崎労働者・野宿労働者の住民票取り上げに抗議する集会『釜ヶ崎をなめるな!

 

釜ヶ崎大量住民票削除につながるもの〜憲法改悪の先取りに抗する集会』

 

(於エル大阪)

6月25日

削除された住民票の復活のためにアイデアを出し合うための集会が西成

 

市民館で開かれる。『奪われた住民票の復活を目指して』(失野実よびかけ)。

7月6日

4月8日の選挙で投票できなかったYさんともう一人の労働者が起こした

 

国/府/市を相手にした損害賠償請求訴訟。第一回公判(大阪地裁)

7月25日

選挙の件で大阪市との話し合い

7月28日

三角公園で投票日前日決起集会(記録映画「俺たちはあきらめない!

 

俺たちの生きる権利・選挙権を返せ!」の上映)

7月29日

「投票に行こう!皆と共に」三角公園に集まり、萩之茶屋投票所へ。

 


 

大阪高裁判決に見える差別と偏見

扇町公園Y.Y

 

判決文には、

 

 我々の健全な社会通念にそぐわない、よって公園に


住民票は認められないと記されています。


私は今の公園で生活し8年間生きて来ました。


その場所で住民票を認めない社会通念って、


人権も人間としても認めないと言う事なのですか。


差別と偏見に満ちた判決であり、


社会通念ですべての弱者は法律すらねじまげられ、勝てなくなります。


この国の健全な社会通念ってなに、

弱者は、人間と認めない人権すら認めない

という事が社会通念なのか?

 我々とはだれ、教えて下さい

法律はだれのためにあるのか…。


 

おかしいことはおかしい!

釜ヶ崎解放会館 中田 健一

昨年12月に福岡県警の元警察官が、釜ヶ崎解放会館に住民登録している人の住民票をインターネットで買いました。これがきっかけとなり、各マスコミが報道を始めました。最初はあまりにもひどい取り扱いで、解放会館が労働者の雇用保険をピンはねしているのじゃないかと記者から聞かれ、いやな思いもしました。

 西成区役所が解放会館に立ち入り調査に来るのがわかり、前の日から朝からセンターでビラまきをしました。かなりの労働者が解放会館に集まり、西成区役所の立ち入り調査に対して「わしらの住民票を奪うな!」と労働者の声があがり、役人を追い返しました。

 これからが長い闘争のはじまりです。

 毎日朝からセンターで支援者、労働者と一緒にビラまきをしていろんな人たちに出会うことができました。西成区役所前、難波の高島屋前、天王寺の歩道橋、ジャンジャン横丁、淀屋橋、梅田の歩道橋で署名活動に参加された労働者ならびに支援者の方、本当に有難うございました。野営闘争に参加された労働者ならびに支援者の方、本当に有難うございました。

 労働者の一人の方が裁判に訴えて、勝つことができ、あの時の市役所の前での感動的な現場にいれたことは、忘れることができません!

 難しいことは他の人が書いていると思うので書きませんが、これからも行政に対して「おかしいことはおかしい」と共に声を上げていきましょう!

 最後に、労働者生きる権利、働く権利、住民票、選挙権を奪い、署名をしてくれた人達の思いや気持ちを考えずに行った大阪市の行為を断じて許すことができない。

 大阪市関市長は恥を知れ!

 

 


 

大阪市による住民票削除と

山内訴訟に対する大阪地裁判決の意義

 

2006130日、大阪市は、うつぼ公園、大阪城公園のテント村の強制撤去に踏み切った。住人たちとの話し合いを一方的に打ち切り、都市公園法を盾に行政代執行法に基づき、それこそ公園から住人たちを叩き出した。抗議者の中からケガ人や逮捕者まで出た。

マスコミは、そのやり方の強引さは報道したが、その住人たちが何を失ったかについては語らなかった。またなぜ大阪市が、それほど排除に執着したかも報じなかった。

その背景には、扇町公園に住んでいた山内勇志さんの裁判が関係していたと言えよう。

山内さんは野宿生活を続けるなかで、どうしても住所が必要だった。たとえば選挙権や携帯電話等の購入など。山内さんは友人宅に住民登録を置いた。すると権力は、居住実態がない登録は違法と友人を訴えた。そこで山内さんは居住実態のある扇町公園を居住地として住民登録を申請した。しかし大阪市(北区役所)は、その申請を受理しなかった。以来、不受理は違法と大阪市を相手に裁判闘争を続けていた。その判決が、実は、行政代執行の3日前の127日、大阪地裁から出された。

判決は、公園のテントを居住実態のある住所と認定し、登録不受理は違法と断じた。もちろん公園に居住権があると裁判所は言わなかった。裁判所は、住所もまた基本的人権の一部で、それを奪う行政の行為は違法とした。家を持ちたくても持てない、アパートに住む収入もない野宿生活者にとっては、当然と言うより常識的な法解釈に基づく判決だった。

しかし、大阪市はこの判決を一顧だにすることなく、こともあろうに判決3日後に行政代執行による排除を決行した。この暴挙は、単にテント村住人から住む所を奪っただけで司法が保障した住所、つまり公園のテントに住民登録を置く可能性さえ根こそぎ奪ってしまった。言いかえれば、基本的人権を法(都市公園法と行政代執行法)で奪った。それは、また憲法25条の生活権よりも公園整備を優先させる行政の姿を写し出した。

判決後、記者意クラブの会見で山内さんはこう言っている。「勝てると思っていなかったので驚いている。生活保護を申請しようと思っている」「大阪城公園の仲間らを追い出そうとしているが、判決が暴力的な追い出しの歯止めになって欲しい」。またこの事件を担当した代理人の弁護士も「ホームレスの多くは住民登録をあきらめ、基本的な行政サービスから排除されている。市は控訴せず判決を受け止めて欲しい」と語っていた。(毎日新聞’06.1.28

これらのささやかな願いを大阪市は見事に裏切った。その一つが、控訴(大阪高裁)であり、いま一つは既に指摘した行政代執行の強行だ。つまり住所そのものを奪った。

この二つに共通するのは、野宿生活者がこの判決をもとに公園のテントを住所として住民登録をすることを防ぐことにある。地裁判決が確定すれば、野宿者の住民登録が拡大する。それを恐れ、野宿者の基本的人権の擁護よりも行政の都合を優先させた。だから行政代執行の中止も控訴も断念しなかった。ここに大阪市の本音がみえる。この本音はやがて、2007329日の2088人の住民登録消除へと続く。

 さらにこの大阪市の人権不在の行政(違法−憲法にも国際人権規約にも)を追認したのが、2007123日に出された山内訴訟に対する大阪高裁判決だ。法の番人たる裁判所が、その本来の任務である法解釈ではなく「社会通念」で大阪市の不受理を合法と判じた。裁判所も地に落ちたものだ。その意味で山内訴訟の大阪地裁判決は、裁判所の「良心」であり、記憶されるべきである。

編集部

 

 

 

 

 


 

 ‘0725日、大阪市は長居公園店と村住人の声だけでなく、市民の声(署名)も無視して行政代執行に踏み切りました。ここでは、それまでの経過だけでなく、マスコミが伝えてこなかった村人たちの日常生活や大阪市への思い、そしてこのテント村へ足しげく通った人々の生の声をのせました。マスコミが伝えるテント村の様子(新聞記事)と対比させながら読んでください。大阪市は、こんな人々の思いさえ、公園整備の名のもとに破壊するのです。

 

 

長居公園仲間の会

20077月 中桐康介/長居公園仲間の会

 

1.)仲間の会の概略

 20007月 大阪市が長居公園にシェルター設置を発表

 同年821日 公園事務所に要望書を提出し、仲間の会発足

 同年1229日 シェルター設置(2003331日閉鎖)

 2001214日 「公園内の50軒(当時)のテントについては強制排除を行わない」との確約を取り、シェルター前に設置した現地闘争団テントを自主撤去し、長居公園内の自由広場前に移設。以降、針中野路上交流会、住吉元気まつりへの参加などの活動を維持

 20024月 炊き出しなどの活動を再開

同年10月 長居公園内で襲撃事件が続発、集団野営を呼びかけ

 20031月 阿倍野区内で追い出し、長居公園への移住を呼びかけ

 20033月 「シェルターの管理運営等に関する連絡協議会」で地域の自治会役員などから追い出しの声が上がる

 同年425日 テント村周辺にフェンス設置

 同年621日 共同農場開設

 20045月 野宿者メーデーとして全労協メーデーに初参加

 同年7月 「第1回長居公園大輪まつり」、以後05年、06年秋に開催

 2005年春〜夏 仲間の会野球部「長居カントリーズ」の活動

 2005年夏〜冬 長居公園周辺での襲撃事件頻発

 2006130日 大阪城・うつぼ公園行政代執行

 同年927日 927弾圧により、5名不当逮捕

 同年1013日 立ち退きを求める告知により、行政代執行に向けた手続き開始

 同年12月 長居球技場で生活する仲間8名に対し、立ち退き要求。同月15日、そのうち5名が長居公園内テニスコート東側にテント6軒設置。

 200725日 行政代執行により強制排除

2007430日 「長居公園一日テント村〜明るいビンボー☆メーデー」開催

 

●通常活動として、夜回り、毎週の相談窓口の開設、福祉行動、月に2回の炊き出しを行ってきた。2002年以降の5年間で、150人以上の野宿者・非野宿者の相談を受け、生活保護受給・テント設置・自立支援センター入所・就職活動などを支援。

 

2.)テント新設の闘い

 20008月 458軒(大阪市調査)

 20012月 50軒以下

 20024月 8

 20031月以降 26

長居公園においてはテント数が激減することによって、「野宿者問題」は「解決」されるかに見えた。だがこれは、失業と不安定雇用の拡大が進行する中で、「野宿者問題」が目に見えにくくなった(潜在化した)ことに他ならない。

 シェルター期に長居公園から排除された野宿者は少なくない数が周辺地域に移動した。新たに野宿者となる者も次々生み出され、それはこの間の仲間の会の相談活動で実証されている。これからさきも根本的な解決がない限り、状況は変わらないだろう。

 2000年夏以降、長居公園には野宿者の監視・テントの設置防止を目的として巡回警備員が導入されていた。襲撃事件や追い出しをきっかけに、自然とテント村に野宿の仲間が身を寄せるようになり、テントを新設していき、仲間の会もこれを支援した。警備員や市職員がテント設置を妨害しようとするのを、実力で阻止し、新設を勝ち取った。テントが新たに増えるにつれ、監視は厳重になり、一時はテント村前に警備員が常駐した。

 テント新設支援は、野宿の仲間の要求に応えるとともに、隠蔽されつつあった「野宿者問題」の存在をふたたび目に見える形で表す(可視化する)闘争でもあった。

 20034月以降、テント数の変動はほとんどない。福祉受給・施設入所・就職などによりテント村を離れる仲間がいた際には、そのテントを譲り受け、新たな仲間を迎え入れた。常時、テント村への入居を求める野宿の仲間がいた。このようなかたちでテントを共有し、テント村に一日でも居住した仲間は100名を越える。

 

3.)共同農場の運営、野菜の販売

 20036月以降、地主から借り受けた休耕地を活用し、無農薬での野菜作りを始めた。

 週に一度を共同作業日とし、テント村の仲間やOBらが連れ立って作業にあたった。

 収穫した野菜は炊き出しや日々の食事にあてたり、周辺の野宿の仲間に届けた。

たくさん収穫があったときには公園内のテント村前に並べて地域住民や公園の一般利用者にも届け、カンパ集めに資するとともに、地域との新たな接点を作ることを目指した。住吉元気まつりや大輪まつりなど、イベントに参加した際にも、生鮮野菜やてんぷら、大学いもなどを販売した。労働の成果物を並べて見せることで、「怠け者」などといった野宿者に対する偏見を打破するための一助となることも願った。

 共同農場は現在も維持し、村を追い出された仲間やOBOG、若者らとの交流の機会となっている。

 

4.)長居公園大輪まつり

 音楽に携わるテント村の友人の発案で、20047月、長居公園大輪まつりを開催した。もともと音楽を中心に野宿者へのサポートを訴える「文化的な」イベントとして提案されたものだったが、毎年夏から秋に開催し、回数を重ねるごとに、野宿者と若者らとの協同のイベントとしてもたれ、その後のテント村の「野宿者と若者の交流の場」「若者の居場所」という性格や、強制排除当日の闘いのスタイルを決定付けることになった。

 建設現場での仕事の経験を生かして、会場設営を若者といっしょに担ったり、模擬店にも多くの野宿の仲間や支援団体が参加した。さまざまなミュージシャンやパフォーマーらが参加することでいっそう若者らの参加の呼び水となり、まつり当日は多くの若者の参加でにぎわっただけでなく、イベント後もテント村や野宿の問題に継続的にかかわる入り口になった。

 2007430日の「ビンボー☆メーデー」の際に野菜を買いに来られた地域の方が「ああ、あの仲間の会のおまつりね」と声をかけたように、一定地域に認知されるイベントともなった。

 

5.)さまざまな世代を超えた人々の交流の拠点として

 テント村では野宿者だけではなく、失業や借金などで生活に困った人を受け入れてきたし、地域のご近所さんや友達が遊びに寄るのを歓迎してきた。プロを目指して田舎から大阪に出てきたミュージシャン志望の若者。うつのうたうたい。施設を飛び出した中学生。進路に悩む大学生。DV被害を受けた女性。酒飲み友達の共産党支持者のおっちゃん。どこかのヒマな社長。世代を超えて人と人とのつながりを広め深めた。村の仲間が言う。「これはテント村が公園という開放的な空間にあるからこそ可能なのです。異なる世代どうしが分断され人間関係の希薄化が進むこの現代社会において、私たちのテント村のような空間は貴重なのではないでしょうか」

 テント村は野宿労働者と若い労働者が出会う場となった。927弾圧で大阪府警に捕らわれたIさんは「若い労働者へ」とした手紙でこのように述べている。「臨時雇いの身で、働きのわりには報われることのない若い労働者と公園労働者が出会い、つながったのは、それなりの理由があっての、必然だと思っています」。貧困が拡大・固定化し再生産される困難な時代。野宿労働者と若い労働者がスクラムを組み、明確な社会勢力へと発展させることは、運動の未来を切り開く希望だ。Iさんは強制排除の現場での若い労働者をさして言う。「賃金仕事を奪われた野宿労働者という一つの味方を得ることで、支配者どもの『フリーター』策をもってする抑圧に負けまいとする、若い労働者たち独自の姿としてありました」

 テント村は、個々人を分断し支配する新自由主義世界と対峙する、最前線でもあった。

●若い労働者との連帯

 強制排除当日に100人以上の若い労働者や学生が集ったのは、大輪まつりなどの機会を通じ若者らに間口を開いてきた成果といえるだろう。ここ数年、「格差」「貧困」が問われるようになったが、Iさんが言うように、野宿労働者と若者との出会いは必然でもあっただろう。

 07430日に、テント村のあった場所に隣接する広場で「長居公園一日テント村〜明るいビンボー☆メーデー」が開催された。強制排除への反撃として「若い労働者の仕事と生活の問題に取り組んでいく」ことを明確に意識した企画が、強制排除の現場で取り組まれたのは、大きな意義があるだろう。

 

6.)強制排除

 強制排除の現場には、前夜からの泊り込み80名を含め、東京・横浜・名古屋の寄せ場・野宿の仲間をはじめ、200人がかけつけた。そのうち半数以上が20代、30代の若者だった。

 市職員・警備員・警察数百名を動員したものものしい態勢のなか、現場を分断したフェンスの外には周辺住民ら2000人が見守った。大部分のマスメディアは、記者クラブの申し合わせのもと、大阪市による報道規制の外から取材した。

 テント村の仲間のうち5名は、強制排除の現場で丸太組みの舞台の上で、芝居を上演して抵抗した。

●テント村の住人、それぞれへの対応、それぞれの「選択」

 20061013日、テント村に告知が届いてすぐにその当時テント村に居住していた仲間全員に仲間の会としての意向と見通しを伝えた。「大阪城うつぼの行政代執行や日本橋などでの強制排除を見るにつけ、大阪市のやり方は許せない。仲間の会としては抗議行動を展開する。大阪市も行政代執行を準備している。うつぼの時のようなマスコミ騒ぎになる可能性が高い。みんなはそれぞれで納得できる判断をしてほしい。生活保護を受けるなど、タタミの上に上がる場合には全力で支援する。」この時点でテント村に常時居住していた人は17人、入院2人。

以後、仲間の会が直接生活保護申請を支援したり、公園事務所や巡回相談員がサポートする形で順次生活保護の申請を行った。公園事務所や巡回相談員が当たる場合にも、適宜仲間の会としても相談に乗り、基本的にと後押しした。

 大阪市は「説得に応じて立ち退いた」としているが、ほとんどの仲間は「強制排除されるのだから仕方がない」というかたちでアキラメ、仲間の会も「無理して残ることはない」というかたちで退去を後押ししてきた。大阪市への抗議の意思や不満がなかったわけではなく、決して納得づくの立ち退きではない。

 ただ、迷っていたうちの2名については「最後までいっしょに抗議をしたい」という声かけを何度かした。

 25日の時点で、7名が抗議の意思を示してテント村に残っていた。

 強制排除された7名は、他の公園で野宿(4名)、大阪城シェルター入所(1名)、友人宅に居候(1名)、生活保護(1名)。

 ほか1013日時点の12名については、生活保護(10名)、年金(2人)。

●公園事務所との交渉

 200610月の時点で、公園事務所副所長を通じ大阪市に対して、仲間の生活を守るため妥協案の打診をした。「生活保護受給をすすめ、テント数を減らす。世界陸上開催期間中は看板を撤去したり、炊き出しなどの活動を休止する。工事にはこれまでどおり可能な限り協力する・・・。」大阪市からの返事は「一切妥協しない」。公園事務所職員が、「上は012月の交渉により『移設』を認めたために、テントの増加を招いたと考えている」と証言している。

仲間の会としては、大阪市の姿勢は「強制排除ありき」と理解し、以後、07110日に「弁明書」を提出するまで、文書でも口頭でも申し入れや交渉要求は公式にはしていない。

 なお、仲間の会として「代替地」を公式に求めたのは「弁明書」の機会が初めてだ。「代替地」についての大阪市の態度は、「弁明書」以降も一切話し合いの要求に応じなかった事実を見るまでもなく、上記「一切妥協しない」発言、および下記のテニスコート裏の顛末から明らかだったと考える。

●テニスコート裏の暗闘

 1215日にテニスコート裏にテントを張った仲間は、自立支援センター入所経験者を含む、30代から50代のアルミ缶労働者。彼らの希望は、これまで通りのアルミ缶拾いでの暮らしを維持し続けることで、引越し先を探していた。結局、彼らは長居公園内のテニスコート裏手の空き地に引っ越した。公園内で最も人通りの少ない、目立たない場所だった。

公園事務所は不規則な発言を繰り返した。「南部公園事務所の管内で、別の公園に引っ越してほしい」。テント村には一切言わなかったことを、テント設置の翌日の1216日に発言。

「ここも工事予定があるんですよ」と言ってきたので、「どんな工事が予定されているのか、情報開示請求をする」と返すと、翌日以降、工事の話はしなくなった。「みなさんの外出中にフェンスを張るかもしれないけど、出入り口は保証できませんよ。それでも立ち退かないなら、警察を入れますよ」。やれるものならやってみろ、と強い態度で応じると、翌日以降には一切言わなくなった。

 大阪市はメディアに対しては「公園内のテントは14軒(テント村のみ)です」と、この5人と6張りのテントの存在を隠し続けた。公になるとよほどまずいという判断があったのだろう。現状では工事予定もなく、行政代執行もできない。無理にも予算組みをして排除の手続きをとると、「排除のための工事」であることが鮮明になる。

 「何とか一月中に立ち退いてほしい」「立ち退くときには公園事務所に連絡を入れてほしい」とも言った。すぐさま空き地にフェンスを張るためだ。「フェンスで封鎖しないと南西(われわれ、公園南西角のテント村の住人のこと)が入ってくる」

 テント村の強制排除が間近となった一月下旬、土壇場になってやっと生活保護の話が出た。これまで公園事務所は60才以上でないと生活保護の申請はできないと言い続けてきた。最終的に、30代のひとも含めて全員、この話に乗ることにした。職員が不動産を物色して物件案内を見せて「この部屋でどうですか」とすすめる手法が、南部事務所の管内ではじめて登場したのも、このテニスコート裏の現場だった。

 5人の仲間は、この間の一切を、仲間の会と相談しながらすすめた。

●捏造された「地域の声」

 大阪市は「地域住民からの苦情」を強制排除の理由としている。

 大阪市情報公開制度を利用して判明した、公園野宿者に関して市民一般から大阪市に寄せられた苦情のうち、20027月から20071月までの間に長居公園に関して寄せられたものは31件(重複と思われるものを含む)。そのなかには、2006年以降の6件には、公園事務所職員が公園内の施設や近隣の小学校に苦情を出すように依頼した、ヤラセと呼ぶべきものが判明しているだけで4件含まれている。ほかに、依頼されたものの苦情を出さなかった施設も判明している。一方で、仲間の会の呼びかけで200610月以降に「強制排除に反対する署名」を募ったが、071月の一ヶ月の間だけで、長居公園内や周辺駅頭で集まった署名は800筆以上。ほぼ全てが、周辺地域で居住する市民によるものである。

 ある教育関係者は「PTAの話を聞いていて、強制排除が周辺住民の多数の声とは決して思わない」と証言し、ある町内会関係者は「そんなん言うてるのは町内会長だけや」と断言している。

 苦情の内容は@野宿者に対し不安・恐怖を感じる(13件)、A不法であるから、野宿者に公園を占有する資格がない(13件)、Bテントなどが美観を損ね、地域や市のイメージダウンにつながる(12件)、C問題を特定せずに野宿者の排除を要望するもの(5件)となっている(重複含む)。実害に基づいたものは全くない。偏見や主観によるもの、議論の余地のあるものが全てである。(綱島洋之「『支援者』という言葉を再び骨抜きにするために」P.83

●大阪市の暴走

 なぜ大阪市は、批判を恐れずに、多額の公金を投入して強制排除にまい進したのか。

 IAAF世界陸上の開催に合わせて、というのも事実の一端であろう。世界陸上の開会式には皇太子夫妻の来場も伝えられており、これまでも皇室の来訪や国際的なイベント開催のたびに排除は繰り返されてきた。

 関西財界の意向も反映し、大阪市の市政改革のなかで、「公園使用料収入は7億円あり、・・・公園空間の活用を最大限考えること等により、潜在的な増収余地はあり、この実現に向けた検討を進める」(市政改革本部・ゆとりとみどり振興局)とあるように、いかに公園空間を活用して収益をあげるか、という観点が全面に出ている。この方向性に基づいて、2008年以降、長居公園をはじめとする市内の公園に指定管理者制度が導入される予定となっている。主要には、この市政改革の流れの中で、大阪市の経営の阻害要因として野宿者の存在が位置付けられたことによるだろう。(原口剛『VOL  02』以文社)(「大阪のホームレス問題に抜本的対策を」〜ホームレスの自立と青テントの全廃を目指して〜20047月 社団法人 関西経済同友会 美しい大阪づくり委員会)

 市政改革のなかでは、現業職員をはじめとして公園事務所職員も含み、大幅な市職員の人員削減がうたわれ、その時期も間近に迫っている。厚遇問題や部落解放同盟バッシングが吹き荒れるなか、市職員の身分と労組組織の維持のため、大阪市職員の労働組合は強制排除に対しいささかも抵抗する力を失われてしまったことも大きい。

 

●「芝居での抵抗」

 「争いや対立だけではないテント村の在りようを、目に見える形で表現する」それが芝居での抵抗のテーマだった。

 テント村の住人は数年間、地域の人々と共存しながら暮らしてきた。怒鳴り込みにきたオヤジもいれば、石を投げつける子どももいたが、カンパ物資を届けてくれたり、焚き火にあたりに来る人もいた。パンクした自転車を直したり、火事で焼け出された飼い犬を預かったりもした。ぼくらが畑で作った野菜を地域のおばちゃんたちが買ってくれた。争いや対立ではない、「普通の」日常生活とご近所づきあいがあった。

 一方で、大阪城・うつぼの経験から、マスメディアによって対立と騒動ばかりがクローズアップされてしまうことへの危惧があった。

 だから、強制排除の場面で強調される対立構図だけではないものを、何か表現することができないか、争いではなく話し合いを求める思いを地域と市職員と警備員に伝えることができないかと考え、真剣に話し合った。長居公園仲間の会にとって、大輪まつりや地域のイベントなども含め、7年間の様々な活動の中で出会ってきた若者や音楽・演劇に携わる人々とのつながりは貴重な財産であり大きな特徴だ。これを最大限に生かした抵抗闘争をと考えた。抗議行動の中で全体の一部として埋もれがちなテント村に住む当事者の出番を、とも考えた。中桐個人的には、香港WTOへの抗議行動の際に出会って衝撃を受けた、韓国など海外の労働者・農民の、多彩で感情表現の豊かな闘いを参考に、という思いがあった。

 「ワシは芝居で闘うで」「おれはな、言葉では言えないから芝居で言うんじゃ。芝居の中に言いたいことがつまっとんねん」テント村の仲間もこのように話していた。

出演したのはテント村の5人と若者ら。芝居経験者もいたし初舞台の人もいた。脚本は、数年来のテント村の友人である若者2人が書いた。セリフの中に、テント村の存続を求める思いや、これまでの人生遍歴をちりばめた。

 「友達を命にかえても守り抜く」「確かに世界は汚れている。俺たちのことなんか知らんぷりだ。でもなあ、時々、その世界が美しく見えるときがあるんだよ」「愛、世界、友達。わくわくしませんか」

 「世界を愛しているんだ」というセリフには「ガードマンだって日雇い労働者の仲間なんだ」という思いが込められていた。「お母さん、僕のことを覚えてくれていますか」小さな子どもをおいて家を出て野宿になった仲間は、子どもに扮して我が子への思いを込めた。「もうモノを売るのはやめよう。そうだ、(大切なのは)形として残らないもの。いま既にあるものの、豊かな可能性だ」長居公園のテント村は、野宿者運動をも越えて、地域からの社会変革のために、大きな可能性を宿していたのではないかと、いまでも思う。

(未了)


 

2007110
大阪市長 關淳一 殿

546-0034大阪市東住吉区長居公園テント村

弁明書

 私、Sは、この3年間長居公園で生活してきました。今回,大阪市が整備工事 を名目として私たちの住居を強制撤去しようとしていることには到底納得がいかない ので,いくつか弁明申し上げます。

 

大阪市の言い分は,以下のようにまとめることができます。
(1)
私たちのテント村周辺が夜間暗いなどの問題があるので,街灯設置などの整備工 事が必要である。整備工事のために,私たちのテントを撤去する必要がある。

(2) 大阪市は,代替住居として自立支援センターなどへの入所を勧めてきたから,強 制撤去後に私たちが路頭に迷うことになるとしても,それは一切私たちの責任であり,大阪市の側に非はない。

(3) そもそも,私たちのテントは都市公園法上の不法占有に該当するから,強制撤去が可能である。

以上の各点について,私なりの考えを述べていきます。まず(1)についてですが,なぜ,あの一帯だけ街灯設置工事が必要なのか,理解に苦しみます。テント村周辺が長居公園内で特に暗いということは全くありません。現に,テント村前のジョギング・コースは,夜間でも通行する人がたくさんいます。長居公園内の他の場所にこそ,もっと暗くて夜間誰も通らないような道路がいくつもあります。街灯設置工事には,何か別の意図が隠されているように思えてなりません。

 

私たちは整備工事自体に協力する意志はあります。だからこそ,今回の工事の話がなされたときにも,テントを建設できる代替地を求めてきました。後で述べるように、私たちの生活は今のテント村なしには成り立たないからです。なぜ公園事務所は,テント村を長居公園内の他の場所に移転させることを認めてくれないのでしょうか。スタジアム周辺で露宿を余儀なくされている人たちも退去が強要されていることも考えると,大阪市は長居公園から野宿者を一掃しようと急いでいるとしか思えません。なぜそんなに急いで野宿者を排除しようとするのですか。国際的イベントが開催される長居公園に野宿者が生活していることが,大阪市としてそんなに恥ずかしいですか。後述するように雑多な人間が集う私たちのテント村が,そんなに見苦しいですか。

大阪市内外の他の公園でなされた排除では,「野宿者がいると,市民や子供たちが恐がるので公園を利用したくても利用できない。」という「世論」が根拠とされることがよくあります。しかし,この「世論」は事実無根だと思います。私たちは,市民や子供たちから襲撃やイタズラをされたことはあるものの,かれらを恐がらせたことはありません。小学生くらいの無邪気な子供たちにテントを蹴られたり砂をかけられたりしたときには,「誰が子供たちをこんな風に育てているのだろう」と思い,大変悲しい思いをしました。それでも私たちは,長居公園周辺の地域の人たちとの関係を大切にしたくて,これまでここで生活してきました。

 

次に(2)についてですが,マスコミ報道などでは,私たちは「代替住居として自立支援センター入所を勧めてきたのに応じていない」などと,いかにも我儘で,好き好んで野宿生活を続けているかのように書き立てられています。しかし,これは全くの誤りです。

私は3年前まで調理師として働いていましたが,失業が原因で野宿生活を始めました。万策尽き果てて,飯を食うために止むを得ず,生まれて始めてゴミ箱に手を入れようとしたとき,私がどれほど躊躇したか,あなた方に分かりますか。生きるために必死だったからこそ,それができたのです。決して好き好んでできることではありません。それでも何とか,廃品回収の仕事をしながら食いつないできました。長居公園内に定住して生活していれば,地域住民の人たちとも関係ができてきます。

野宿問題に関心がある人たちも訪れてくるようになりました。そのうち,各方面に人間関係ができて,アルバイトもできるようになりました。今,私は自立しています。自力で稼いでいます。アパートを借りて家賃を払えるほど稼いではいないけれども,公園の片隅で野宿しながらであれば,何とか生活できています。野宿生活を始めてから,いろいろと苦労して試行錯誤しつつ,地域の人たちと関わりあいながら,今の生活を築いてきました。どこかの銀行や空港会社や娯楽施設などとは違い,行政の手助けは一切なしで生活してきました。今の行政に雇用を創出する能力がないことくらい,誰の目にも明らかですしね。

ところが今,大阪市は「自立支援センターに入所させて『自立』させてあげようとしているのに公園に居残ろうとしているのは,全くけしからん」とほのめかしています。自立支援センターが自立支援施策として有効かどうかという問題もありますが,それとは別に言いたいことがあります。もし私たちが自立支援センターに入所してしまえば,施設自体の閉鎖性のために,地域の人たちと知り合うこともできなくなるし,規則が厳しすぎるせいで,いろいろな人たちと酒や茶を酌み交わしながら語り合うこともできなくなります。もしかしたら,今までテント村で得られていたような仕事が得られなくなり,逆に今までの自立生活が不可能になるかも知れないのです。

私は私なりの方法で必死に自立してきました。それなのに,大阪市は「あなたの自立してきた方法は間違いだ。公園を出て自立支援センターに入りなさい。」とでも言いたげな態度を貫いています。バカにされているような気がします。大阪市が命じるままに自立支援センターに入所して「自立」に向けて努力させられることは,私から見れば,これまでの私自身の自助努力の歴史を否定することに他ならないのです。私の生き様を,私自身が否定しなければならない。人間として,これほどまでに悲しいことがありますか。

ろくに市民のために仕事をするわけでもなく税金を食い潰しているオエライ役人さん たちに,こう言いたいです。自立していないのは,あなた方だ。あなた方に本当の自立とは何かを考えて頂きたい。会社や役所などで,私たちの社会に必要かどうか怪しいような仕事をして給料をもらうのが自立ですか。私たちのように,廃物を拾い歩いて有効利用することが,なぜ自立と言えないのですか。この大量消費社会において,このような私たちの生業は決して非難に値するものではないはずです。また,私たちは毎週末,某所に借りている畑で農作業に従事し,収穫物を自分たちで食べたり,周辺住民の人たちに廉価で販売したりしてきました。行政的には認知しようがないかも知れませんが,これもまた私たちの自立生活の一面です。そもそも,働くとはどういう意味ですか。企業や行政から給料をもらうことですか。金を稼ぐことですか。働くとはどういういうことなのか,そのコンセンサスが社会的にない限り,自立支援なるものを私たちに強要することは許されないはずです。私は,これまで私が築いてきた地域とのつながりを大切にして,これからも長居公園で自分なりに自立し続けていきたいと考えています。

 

(3)についてですが,法律上は不法占有という口実ですが,要するにあなた方が言いたいのは「野宿者の私生活のために公共空間を占有するのはけしからん」ということだと解釈できます。しかし私たちは私たちなりの考えで,テント村の公共性というものを常に追求し続けてきました。公共空間を占有しているという負い目を日常的に感じているのは,他ならぬ私たち自身であるからです。

私たちがテント村で定住しているからこそ,地域の人たちが,毛布衣類や食糧など,いろいろなカンパ物資を持って私たちを訪れて来ます。テントがあるからこそ,それらカンパ物資を長期間保管することができます。私たちは,公園で野宿することができずに路上などで不安定な野宿生活を強いられている人たちとも,それらカンパ物資を分け合っています。

野宿者だけではありません。現在,いわゆるワーキング・プアと呼ばれる潜在的野宿者が大勢いますが,失業した非野宿者が「これからどう生きていけばいいか」と,私たちのテント村に相談に来ることもあります。行政機関が全うすることのできていない公共的な機能を,私たちのテント村が果たしているのです。

さらに別の役割も果たしています。公園事務所の方々は,長居公園大輪祭り(昨年9 17-18日)や,もちつき大会(同1231日)に,老いも若きもたくさんの人たちが集い楽しんでいたのを見ていたはずです。あるいは,非野宿者の友人たちや地域の人たちがちょくちょく遊びに来て談笑している光景を,幾度となく見ているはずです。これはテント村が公園という開放的な空間にあるからこそ可能なのです。異なる世代どうしが分断され人間関係の希薄化が進むこの現代社会において,私たちのテント村のような空間は貴重なのではないでしょうか。非野宿者でありながらもテント村の常連である友人たちはこう言います。「テント村がなくなれば,私も貴重な居場所を失うことになる」と。テント村の存続は,この社会に息苦しさを感じている非野宿者たちの希望でもあります。

以上の理由から,私は本件撤去勧告に応じることは出来ません。最後に,一言付け加えます。私はこれまで,いろいろと苦しみ,悩んだり工夫したりしながら公園で野宿生活を続けてきました。それを「不法占有」の一言で片付けられ,いとも簡単に「自立支援」を押し付けられていることを,大変悔しく思います。誰しも,今ここでこのようにして生きているのには,それなりの理由や歴史があるはずです。私たち野宿者がこれまでどのように生きてきたのか,思いをめぐらせて頂きたい。それを尊重して初めて,本当の意味での自立支援が可能になるのではないですか。

關淳一さん,質問があります。あなたは自立していますか。働いていますか。公共のものを私物化して人に迷惑かけていませんか。

以上

 

 

 


 

長居のこと

Sさん

 

結局長居のテント村に最後まで残ったのは7人。7人のためにあんだけ金使うってとこがすごいよな、何なんだろ。そこまでメンツを保ちたいのか?かえって恥かいたんじゃないかと思う。あんなふうにテントの後ろ側に目隠ししてコソコソとやって。行政はことばづかいはていねいだと思うよ。でもていねいに、ひどいことされて、出て行かされたという感じがする。隠し持ってた刃物で裏から刺されたみたいやな。抵抗させないし、…まあする気もなかったけど。

 

家を出る

野宿になったところからやったらそりゃいろいろあったんやけど……。嫁と姑(嫁の方の母)と関係がうまくいかなくなって、言葉のやりとりで「そんなんやったらこの家出てって、ホームレスにでもなったら」と姑に言われた。「そーでっか。おーきに。じゃあそうさせてもらいます!」て。で、仕事やめて、家出て、ひとりになって。ホテルとか転々としながら、紹介された店に勤めてたけど、1ヶ月くらいでやめた。家出たときから、もうどうでもいい、って気分だったし、もう人間やる気なかった。家出たときから自暴自棄で、本当にホームレスでも何でもなってやる、ぐらいの。それですぐにベンチで寝だした。雨の日だけスパワールド行って。ホントに何もしないで、メシ食って一杯飲んで。

 

野宿へ

お金が尽きてから、11月頃にベンチで知り合ったYさん(長居のなかま)に教えてもらってカン拾いの仕事はじめた。それが大変やったんやけどな。それから4年経ったんだ。4年てすごいよな。今も自分は綱渡りで生きてると思う。よう生きてると思うわ。ベンチやらドームやらに居てどけと言われたらどいてを繰り返して。長く居たら荷物もでてくるし、屋根かけてたらそこに張り紙されたときに、テント村の人らが抗議してくれた。でも結局そこから追い出されて、そんときに「行くとこない」と言ったら、ドーム管理の方の事務所の人らが「テント村行け」と。そしたらテント村管理の方の公園事務所は文句言ってきたけどね。自分のとこ以外の管轄に行ってほしいみたいな。そっからテント村入りしたんだ。

 

テント村に

テントじゃなくて、ドーム(長居陸上競技場)んとこで何人かで居たとき、その日暮らしやってたときからは考えられんよなぁ。でも最初テント行くことになったときは、「ホームレスの集まり!!」そういう組織に入る、という感じがして、スゴイ嫌だった。半年はテント村でも生活で必要なこと以外はしゃべらなかった。あいさつはするけど。3ヶ月くらいして初めてなかまの会のミーティングに出た。それで全体の炊き出しの当番をやってくれんか、と誘われ、まぁ月1回くらいなら、と手伝うことにした。そっから畑(なかまの会が藤井寺に持っている畑で、毎週農作業で収穫した野菜をテント村でカンパ販売していた)行ったり井戸掘りしたり、ソフト(長居のテント村や居宅のなかまでチームをつくってやっていた)に参加したりして人間関係ができていっちゃった。

 

そういう年月があって、急に世界陸上があるからって追い立てられて、納得出来ないわな。きっと公園からホームレスを排除したかったわけだ。でも今、実際まだ野宿してるわけよ。全然いなくなんないわけだ。代執行前に、こっちが他の目立たない場所に移る案とかを提示して、話し合いをしに行ったのを押し切ってまで無理矢理代執行っていうかたちでやった意味があったんか、って思う。ドームの前は今柵が出来て入りにくくなってる。そういうことすんだなあ。

 

今度公園が公営じゃなくて民営化(指定管理者制度などの動きのこと)されたらもう10年もたったら出入りチェックとかされるようになるんちゃうか。それっておかしいよな。役所はアレかもな。俺らのコミュニティの強さが怖くてかえってキツくしてんのちゃうか。ただの横のつながりなんやけどな。必要やからあるだけやのに、危ない組織とかそういうふうに思ってるんちゃうか。

 

仕事

テント村にいたときには、なかまに紹介してもらった弁当の配達や調理の仕事に行けたことで社会復帰のリハビリみたいなことが出来たような気がする。なかまの口コミの仕事ばかりだった。短時間の仕事だったけど、テントにいるということを分かった上で雇ってもらえた。テントを排除されたのちに、テント村に遊びに来ていた元野宿のなかまの居宅の家に居させてもらうことができたから、今新たに勤めのめどもついて自分の家をかりてっていうことができている。例えば自立支援センターに行ってたら、そっから仕事勤めて、ムリしてやめてまた野宿ってことになったんちゃうかな。だいたいそっからきちんとした勤めに行けるんかも微妙や。

 

もしまだテント村に居ることができてたら、もう少しゆっくりと仕事を探せたと思う。出されたときはあせってケツに火がついてて探したから、条件も悪いところをつかんでしまった。残業代も出ず、メシも食わず、朝6時〜16時まで休憩ナシで仕事をしたこともある。結局そういうとこに勤めんとあかんハメになった。そこに行きながらハローワークで探して、ようやく今のとこをみつけた。条件&給料を考えるといいところ。前の仕事がたまたま15時までで、それからぎりぎりで面接させてもらえて、見つけることができた。普通に仕事をしながら余裕もない状態でさらに仕事を探すってのはほんとにきついよ。条件がひどいってこともその前の職場には言えないままやめた。

 

生活保護

保護はありがたいけど、勤労意欲なくさないかな?って俺は思う。きっとそーやって考えちゃうと思うわ。俺は保護はムリやと思う。年齢的にもムリやと思うし。俺より先に保護受けなアカン人らがいっぱいおるやん。そこの矛盾を感じる。俺らの目と鼻の先で寝てる人らたくさんおるやん。そういう人らみんな知らんぷりやあいつら。俺はたまたまテントに居て、排除の対象にされたから保護だの支援センターだのっていうこと言われたけど。

 

代執行当日

——代執行当日、長居のテント村では自分たちの思いを表現する芝居をやりとげるということを第一に位置づけていた。

 

(当日は)まっしろやった。まっしろけ。時間経過とかはだいたい覚えてるけど。後で一緒に居た何人かに、おかしかったよ、普通じゃなかったと言われた。考えてたのは、安全に終わるように、ということ。法に触れない、暴力ふるわないこと、それだけは気をつけようと思ってた。あとは思ったとおりにしようと。きまりごとがいっぱいあったけどまっしろになっちゃって。悔しくて。腹が立って。わーって言ってるだけでも自分が何言ってんのか分かんない。前の晩から。だって3年やで、あそこ世話になったん。あそこでホンマ生きさしてもらった。いろんな人間関係ができてさ。

 

——当日は、芝居をやりとげることが最優先で、ケガ人、逮捕者も出さない、という方針が出されていた。それで危ない状況になったら、指揮が判断して撤退の指示が出され、それには全員従うこと。芝居の役者は舞台から降り、すぐにスクラムに入ることなどが確認されていた。Sさんは、その撤退の指示が出た後も、最後まで舞台に残ろうとした。

 

残ってしまったのは、安全に終わる、無事に芝居をやる、ってことで来てくれた人には申し訳ないなと思ったけど、しゃあないと思う。そらいろんな思いあって「残るな」ゆうのはムリやべ。最初言ったんと矛盾するけどな。自分でも頭では分かってるんやけど。芝居やったのもソレだ、みんなに声かけて芝居やろうって言ったのもいろんな気持ちがあった。ホントはテントにずっといたかった。結局芝居最中に1回テントに行ってしまった。芝居のカッコのまんまでベッドに寝て。笑いながらやってるガキもいたな。でも1人できた人もいて「人がおるんやから」と言うてくれた。

 

芝居

芝居んとき、俺が何回も同じセリフ繰り返してたとき、みんなにあれセリフ忘れたんやろ、って言われたけど違うのよ。俺が言おうとしたらあっちがトラメガで言うから「おまえは、おまえは」ってその人に向かって何回も言ってたのよ。セリフ忘れたわけじゃないんや。そのうち「こりゃダメだ。聞いてくれないや」と思ってこっちもトラメガをとった。芝居というよりもそんときはそのトラメガの人にメッセージを伝えようと思ってやった。

 

おのおのがテントにこもって抵抗するよりも、芝居で言いたいことを伝える方が意味があると思った。セリフに言いたいことが全部詰まってたから。ワッショイワッショイ言うよりも、そっちの方が伝わるんじゃないかと。(芝居に参加)すると思わなかったようななかまも、一緒に出てやってくれたし、それはスゴイことや。あとはみんな主義とか考え方違うんだからいろいろあると思うよ。何にしたって長居のスゴイのはそういう考えの違うやつらが集まって祭やら何やらやってるんやからな。すごい健全やと思うで。それがかえって怖かったんちゃうか。聞いてみたいわいっぺん關さんに。「何がしたかったの?」て。

 


あたしとテント村  川人理恵

2006年

12月31日(日)

今日は餅つき大会。急いでテント村へ向かった。

昼過ぎ到着。

にぎわっていた。

立ち退きの期限でもある日。

つきたてのお餅はおいしいな。

餅ついて食べてお酒飲んで、あっちこっちで絶えない笑い声。立ち退きなんてなんのその。今日のテント村はいつも以上に明るかった。

でも、刻一刻と迫ってる強制排除。ほんまかな?正直、何が現実なのかよくわからなくなってくる。わかってないわあたし。

 

暖かい部屋で、おいしいもの食べて、ふかふかの布団で寝たい。

でも、一緒に生きていきたい。

誰一人野垂れ死ぬことなく年越したい。

排除されたくない。

そう強く思うのもあたし。

どちらの欲望も捨てきれない。

 

ごろごろしてるのが一番好きななまけものやけどそうもしてられない気がする、今度こそは。

 

芝居よかった。

今日までの練習ほんまにお疲れ様…って思う。生活もあるのにさ、こんなときにあんなすんばらしい芝居見せられたら、あたしはどうしたらいいのー。

 

2006年、長居公園仲間の会の畑に出会えたことはあたしにとって大事なことでした。

まだ長居は盛り上がってるんかな。

実家に帰らねばならないのがめっちゃ名残惜しかった。

一緒に年越したかった。

これからも誰にも邪魔されずずっとずっとことの大切な出会いを続けたいわ。

今年最後の夜に。

新年また会いましょうよね。

 

 

2007年

1月16日(火)

最近は一緒に焚き火を囲んで、あーだこーだと話せるあの場所が居心地よくて、笑いが絶えなくて、ときに言い合いったり、歌ったりほんまにしあわせ。

でもそれを引き裂こうとする人がいる。

それが悲しい。

ほんまに、やりきれん。

なんなんだか。

時間を見つけては足を運ぶ。

会いたくてしょうがない。

ビラ配りや署名集め、おいしいおもち、夜な夜な焚き火にあたってしゃべって、畑行ったり、風呂屋さんに行ったり、カラオケ、キャッチボール・・・。

明日も行こう。

会いに行こう。

排除されてもばらばらにされても繋がりが途絶えることなんてないけど!お花見の日かって決めたけど!あそこであの場所でみんなと会えるのは最後かもしれないのやから。

今できることしよう。

 

1月20日(土)

毎日のようにテント村へ行っている。

野宿して生きるってどういうことなんか。

「自立」って何か。

署名集めで立ってたら、「勝手に公園に住んでいい訳ないやろ!」「なにが署名やっ!」などなどいろいろ怒ってくる人がいた。

これにうちは何も答えられんくて。

ビビッた。

突っ立ってるだけやった。

どうしたら伝わるのか。

自分の言葉で返したい。

 

2月9日(金)

もう無い。

仕事終わってまっすぐ家に帰る道のりがめっちゃ寂しい。

時間が経つのってこんなに遅かったっけ・・・。

どうしよう。家に帰るのが嫌で、あてもなくふらふらしてたらRからメール来た。

「Kさんのテントがテント村近くの噴水のところにあるので遊びにおいで〜!!きっと落ち着くと思うよ〜」。

大福持って速攻行った。

KさんとRがベンチに座ってた!

夜遅くにげっそり顔のNさんもバイトから帰ってきた。

結局帰らずうちもテントで一緒に寝た。

どうせ暇やから次の日もずっと公園にいた。

そしたらゆうを連れたYさんにも会えたし、Sさんも来た。

ふらふらとテント村の前に行ったら、なんか込みあがってきた。

ほんまにもう無い。

あそこにはテーブルがあって、台所はあそこで、あそこにもあそこにもテントがあって・・・。

フェンスにしがみついて覗いてたうちの後ろから、「ここホームレスの人が住んでたとこやねー」という子どもの声がした。

親子連れやった。

 

夜は記録班の会議へうちも行ってみた。

 

2月14日(水)【あたしとテント村】

大阪市のやったことって、なんかおかしくない?

この事実は決して忘れ去られてはあかんことやと思う。

だけど結局、マスコミはあの「騒動」だけを流して、一瞬でなーんにも無くなったテント村のことなんて人々の記憶から簡単に忘れ去られていくんやと思う。

だから、私がこの目で見たことを伝えたい書きたいと思いながらも、落ち着いて書いていこうという気分じゃなかった。

悲しくて、寂しくて、悔しくて、いろんな感情が入り乱れる。

 

そんなとき、記録班の会議があると知り、あたしも行ってみた。

マスコミの報道やこの間you tubeにアップした画像を見て話し合った。

当日の画像はこれまでより少し落ち着いて見ることができた。

「これからは記録の編集にしてもそれ以外にしても吐き出していく作業をしていこう」という話がうちにとって心に留まり、切り替えていこうという気になれた。

記録班じゃなかったし、みんなと会いたくて行っただけやったけど、行って話せてよかった。

 

だから少しずつ自分の言葉にしていこうと思う。

 

あのテント村にはいろんなもんがあった。

生活の場でもあり、いろんな人の居場所やった。

テント村が迷惑だと言う人もいれば、テント村の存在そのものが生活の一部だった人がたくさんいたことも間違いない。

あたしがそうやった。

あたしとテント村の一番最初の出会いは、テント村の人たちが共同でやっている畑から。

あたしはその畑から自転車で五分ほどのところに住んでいた。

一緒に土を耕し、種蒔いて収穫し、食べた。

畑作業が終わっていつも通り帰ろうとするとき、Iさんが「また、長居にも来てやー」と温かく言ってくれたことが初めてテント村にも行くきっかけになった。

初めて行った日は炊き出しの日で、ハヤシライスを一緒に食べた。

ちょっと緊張してたうちを和ましてくれたのはちーこやった。なんとなく目が合って、手を振ったらかけ寄ってきてくれて。

このちーこも八月に亡くなったときは悲しかった。みんなが悲しんでいた。飼い主のYちゃんは酔っ払いながらちーこを思い出しては、「ちーこ、ちーこ死んだあ」と言ってしょっちゅう泣いていた。

釜ヶ崎で毎年やってる夏まつりに、長居からも出店すると聞いてうちも行った。帰りはSさんとトラブルになり、「畑にももう来んな!」と言われて畑を休んだりもした。

そんなこんなしてるうちに、テント村では大輪まつりに向けてばたばたし始めていた。大輪?のうちにとって、どんな祭りやろう?って感じやった。

いざ当日では、そこでたくさんの笑いを見た。みんながほんまに生き生きしていて、これまで見たことのない表情がそれぞれに素敵で、それが一番印象に残っている。飲んで食べて歌って踊って。野宿してる人、近所の人、学生やらいろんな人が集まっていた。二日間ぶっ通しでこんな面白いことなかった。大輪まつりって面白いなと思った。

だけど排除の話はすでに出ていて、大輪まつりは最後かもしれないと言っている人もいた。

「やるわ!」と言って泣いてる人もいた。

わけがわからんかった。

せっかく関係ができてきたのに、こんないいまつりないのに・・・絶対嫌だ。

とりあえず、踊って飲んでみんなで楽しんだ。

 

時間が経つにつれ排除の話は具体的になっていった。

 

Nさんが署名用紙を作って、署名を集めることになった。

 

十二月ごろ、畑でOさんと会ったときに芝居の話を初めて聞いた。大晦日の餅つき大会のときにやろうと思ってると話していた。「一緒にやろう」って言われたけど、時間が取れそうになくて返事できなかった。

年末に入って仕事が休みになってからは、時間があったらテント村に行った。

それから代執行の日まで、ほとんどバイト先とテント村を行き来した。

少しでも行きたくてしょうがなかった。

会いたくてしょうがなかった。

自分に今できることは何か?と、必死だった。

餅つき大会のときに初めて見ためちゃめちゃ楽しみにしていた芝居は、?がいっぱいやった。うちの頭がパニックやった。だけど、それぞれのキャラにぴったり合った役が抜群に面白くて、感動した。

年明けからの記憶はごちゃごちゃばたばたいっぱいいろいろありすぎる。

一月半ばを過ぎてもいつまでもお正月のテント村。

発電機回してみんなで焚き火囲んでテレビ見て飲んで、夜な夜な話した。

各労働組合への膨大な発送作業や署名の集計。

マスコミの出入りも増えた。

大阪市から何度も来る通達はみんなで向かいの芝生でキャッチボールをしながらかわした。

プチ大輪まつり。あたしは畑で採れる野草で天ぷら屋さん。作り方はSさんに教えてもらった。看板を作ってたら、「のれんは命や!頑張れ」と応援してくれた。二回目の芝居上演。

ぎりぎりまで続ける署名集め。

代執行当日も芝居をやる上で役者の穴あき問題。

あたしも芝居をやることに。

漫談師として芝居の練習。

笑って泣いてときに怒鳴りあって話し合っていた。

 

あたしとテント村。

支援を超えて、それぞれ個人個人との関係ができていた。

テント村を簡単に壊されても、うちらは簡単に壊れない。

畑やテント村との出会いはあたしの生活を変えた。

あそこにはいろんなもんがあった。

 

2月22日(水)【あそこにあったもん】

生きることは孤独。

寂しさを抱えて、その寂しさを突き放したくても、どうしようもなくふっとやってくるこの寂しさが、耐えられない。

なんでこんな気持ちになるんやろう。こんな風にずっと生きてくなら死んだほうがましやないか?

みんなどうやって生きてるんやろう。

同じようにこんなに寂しく生きてるんやろうか?

見渡したら、周りばっかりが羨ましい。

あんな風にあたしだって、笑って生きたい。

わかってんねん。

寂しい裏には、人ともっと深く関わりあいたい気持ちで充満しきってるあたしがいた。

でも人に振り回されたくない、迷惑かけられたくない、踏みこまれたくない、この人は嫌いあの人は好き、人が怖い。

人と関わる前に警戒する自分がいる。人と関わったとき一線引く自分がいる。

一人は孤独で人が恋しい、でも人がわずらわしい。

でも一人は嫌。

もっと人と深く関わりあえるようになりたい。

この孤独はそこにある。

そして、こういう自分ができていく過程に、あたしの家庭環境を思い返す。

家族四人、それぞれがバラバラの家やった。

母親はずっと精神的な病気をわずらっていて、暴れたり叫んだり怒ったり、子どものあたしにとっては怖かった。

それに対しては父親は仕事ばかりで何もしなかった。

家族と分かり合ったことはないと思う。

学校から帰ってきて、今日あったことを安心して話したことなんてほとんどない。

家族と会話した記憶なんてほとんどない。

そんな子ども時代。

どう人と関わりあったらいいのかときどきわからない。家の問題はもっといろいろあって、それはそれでこの長い時間の中で消化してきている。

とにかくこの一、二年、そんな自分の孤独感について考えていた。

そんなとき、テント村と出会った。

二十四年間の人生で、感じたことのない温かさがあそこにあった。

今日あったことをあーだこーだ話せた。

「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえり」があった。

誰かがそばにいる。

生臭いぐらいの人間同士の関わりがあった。

 

孤独なのはあたしばっかりじゃない。

うちの家族だって孤独やった。

みんなどっか寂しさ抱えてる。

きっと関市長だってこの寂しさを知ってるはず。

簡単に人と話しもせず生きられて、誰にも気づかれず一人で死んでいける社会は怖い。

テント村は違った。

だから寂しくなかった。

だからあの場所がなくなってつらい。

テント村がなくなった今、またいつものごとくふっとやってくる寂しさ。そんなときテント村で過ごした日々を思い出す。

そして、舞台と言えたのかもわからないあの場所で、なんとか三回目のさわりまでやり切ったあの芝居を思い出したときに浮かんでくる、

「繋がり?あるじゃねーかアルジャーノン!」のセリフは、そんな自分に対して叱責されたように感じれて、込みあがってくる。

こんなあたしにとってこのセリフが今でも自分の中で生きている。

 

2月24日(土)【芝居のこと】

あたしは途中から加わり漫談師として芝居に出ることになった。

漫談師をやるとなって、あのどこか飛んでる漫談師役をうちは演じられるんやろうか…と思った。

とりあえず練習をはじめた。

お題はアドリブで!という台本やったけど、最初から決めときたいという希望を出してお題部分の練習はしなかった。

だけど、決めとくにしても気の利いた漫談は思いつかなかった。

正直、投げ出してたときがあった。

代執行当日に漫談なんてもう無理。決めとくにしても思いつかへん。なんかもうあんな役やりたくないなあ…。

そんなあたしが最終的にはお題はアドリブで当日やり切った。

自分が一番驚いている。

もうできないと、投げ出さないでよかったと心底思う。

投げ出さないで済んだのは、芝居メンバーのおかげやとほんまに思う。

練習しないうちに練習するよう声をかけ、やりたくないと言ってるうちに「ちょっとはやってみろよ」と、あきれながらも練習に付き合ってくれたこと。一緒になってうちらしい漫談師のキャラクターを考えてくれたこと。代役ということではなく、うちはうちの漫談師を演じたらいいんやと話し応援してくれたこと。

何より、懸命に練習する他の人の姿を見てたらうちもやってやると思った。

何かをやり切ることは自分の自信になる。

あの漫談師を演じきったことはあたしの自信。

 

当日の緊張は思いのほかすごかった。

何度もミーティングを重ね、夜を明かした。

明け方ごろ、ぞろぞろ市の職員やガードマンが集まりだした。

テント村はいつにない緊張感で漂い、その一番最初の最初の出番が自分だと思うと、ほんまに心臓がドキドキした。

シートが剥がされた舞台の脇でまだかまだかと出番を待った。

そうしているうちに早くやりたい!出させろ。という気分になってきて、ほどよく緊張が解けていた。

あの日は悔しくも風邪を引いてしまっていて、いざ!出てみると一回目の出番では声がかすれていて自分でもあれっ?って感じで焦った。

アドリブのお題は何を言ったかあまり覚えていない。

二回目か三回目のとき全体が静かで、自分の声が通っていることがわかった時は嬉しかった。それまでは必死で声を絞り出しても誰にも聞こえてない気がしたから。

芝居を演じているうちにテントはバリバリ剥がされていた。

こうやって、人の手で一つひとつ何てこともなく簡単に壊されていくということは、わかっていたつもりだったけど、わかってなかった。

何もできなかった。

たくさんの視線が怖かった。

なんとか三回目のさわりまでやれた。

十二時前。

三回目のさわりで、舞台を囲んでくれていた人たちに手が伸びてきて、「撤収」の声がかかった。

 

強制排除のときのことを書こうとしてもなかなか書けない。

ただただ、緊張していた。

それだけで。

それだけの自分にとって、やっぱりテント村がなくなった今どうしても思うのは、排除を阻止することはできなかったし、阻止することはどんなに難しくても、もっとできることがあったんじゃないか、あたしはただテント村に行ってただけじゃないか、もっとあのときこうしてればよかったという思いがよぎる。

ほんとに悔しい。

 

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あたしという一人の人間がテント村との出会いによって考えさせれられたこと、

感じたことをできるだけ正直に、自分の日記を書き加えまとめました。

 

ご意見・ご感想などもあればぜひ聞かせてください。

fj8_4ver2(a)hotmail.com

 

2006年

 

10月30日

名古屋の公園で市職員への傷害罪に問われたほとけさん。容疑を否認したが、

 

名古屋地裁で求刑通り罰金30万円の判決が出る。その後控訴。

11月3日

『持たざる者』の国際連帯行動(東京)

11月5日

『反弾圧報告集会』(於エルおおさか)

11月6日

東京都の「ホームレス地域生活移行支援事業」第2回目の開始に抗議(抗議理由:

 

対象がテントを張った野宿者に限定されている、追い出しとセットになっていること)

 

し、都庁前で野宿者による5日間のリレーハンストがはじまる。

11月8日

2006年1月の靭・大阪城公園での行政代執行の違法性を問う裁判がはじまる

 

(大阪地裁)

11月14日

反弾圧9.27救援会主催で、大阪城音楽堂で「ぶっとばせ!弾圧・

 

排除大集会」、その後市役所までデモが行われる。

11月25日

野宿者ネットワーク主催セミナー「`ホームレス'ってどんな人?〜野宿者問題を

 

一緒に考えてみませんか〜」開催(於ふるさとの家) 

神戸の冬を支える会主催で、播磨地方の野宿生活者支援のための相談会が

 

姫路カトリック教会で開かれる

11月30日

9.27弾圧の稲垣さん、第一回公判(大阪地裁)

12月1日

9.27救援会主催「今、反撃の狼煙を!!『ぶっとばせ!弾圧・排除12・1

 

行動」(大阪市役所前街頭宣伝活動〜長居公園テント村の強制排除に

 

反対する署名を大阪市に提出〜エル大阪にて集会)

12月10日

釜ヶ崎キリスト教協友会:越冬前段集会

12月21日

大阪弁護士会主催で「全国一斉多重債務110番」の面接相談会が、大阪弁護士

   〜22日

会館で行われる。

12月25日

第37回釜ヶ崎越冬闘争

     〜1月10日

12月26日

こどもの里第一回ワークキャンプ開催。

   〜31日

 

12月26日

パリでホームレス支援団体が、市民にホームレスのテントで生活してもらう

 

運動を進め、ホームレス支援に対する市民の理解が広まる中、

 

パリ市長が、ホームレスにより多くの住居を提供することを約束。

12月28日

医療連が「長居公園の野宿者立ち退きの前提となっている工事は不当」として、

 

住民監査請求を行う。

12月30日

神戸で、橋の高架下で野宿していた男性が凍死。男性は板の上で

 

毛布をかぶっていた状態だった。

2007年

 

1月2日

釜ヶ崎キリスト教協友会越冬セミナー公開講座:平井さんと歩くフィールドワーク

1月5日

大阪市が長居公園のテント居住の野宿者に弁明機会付与の通知を渡す。

1月8日

釜ヶ崎キリスト教協友会新年会

1月9日


「緊急テーマ釜ケ崎「住民票問題」の本質を問う 〜現場での対応を考えるために〜 」 

 

講師:笹沼弘志(主催:釜ヶ崎のまち再生フォーラム、於:西成市民館)

1月10日

釜ヶ崎キリスト教協友会は、長居公園での行政代執行の中止を求める申入書を提出。

1月15日

大阪市が長居公園の行政代執行手続きをすすめ「除去命令書」を出す。

1月18日

「長居公園強制立ち退きに関する抗議・要望書」が法律家・法律実務家一同

 

連名で大阪市長宛に提出される

1月11日

釜ヶ崎キリスト教協友会による越冬夜まわり

  〜2月末

 

1月23日

昨年5月2日に、日本橋公園でテントの強制撤去があった事件で大阪市を提訴。

住民登録を出来る場所がなくなり、やむを得ずテント生活をしている公園での

 

住所登録を求めた山内さんの裁判。

 

健全な社会通念に基礎づけられる定型性が必要という

1月25日

大阪弁護士会が、大阪市に「大阪市による野宿生活者に対する強制

 

立ち退きに関する緊急要請」を提出。中では、憲法、、社会権規約、生活保

 

護法の規定を鑑みて、野宿当事者、関係者との話し合い/適切かつ十分な

 

代替住居の確保など代替措置を講じることを求めている。

1月26日

行政代執行の動きに抗議し、関西若手研究者有志が「大阪市・長居公園テント村

 

に対する行政代執行に関する研究者声明」を出し、賛同者を求める。

1月30日

大阪市は、長居公園でテント居住の野宿者たちに、代執行令書を渡す。

 

野宿者は、以前に公園居住の事情を書いて出した弁明書への回答と話し合

 

いを求める申入書を渡すが、大阪市はグループとしての話し合いは応じないと

 

回答。あくまで個人相談しか受け付けない姿勢を示した。

1月30日

釜ヶ崎キリスト教協友会は、10日に大阪市に出した申入書の回答が、行政代執行を反省する

 

ものでなく、繰り返す可能性の見えるものであったことに抗議し、再度行政代執行

 

に抗議する申入書を提出し、大阪市に話し合いに応じるよう求める。

2月2日

2006年1月の靭・大阪城公園での行政代執行の違法性を問う裁判第2回公判

 

(大阪地裁)

長居公園の行政代執行への抗議・反対署名を大阪市に提出(5千人以上が署名)

2月5日

大阪市は、長居公園で強制代執行を行う。職員およそ260名、民間警備員

 

作業員ら約550名を動員。

 

午後強制撤去を受けて、野宿者や支援者が公園内で抗議行動を行う。

フランス・ブラジルで抗議行動に取り組んでいるNOVOXが、大阪市による長居

 

公園の野宿者の排除に抗議する緊急声明を出す

2月7日

釜ヶ崎キリスト教協友会:シェルター、夜まわり活動で1400組の下着配布

   〜9日

 

2月12日

長居公園の強制撤去に対して、パリの市民団体や在住日本人が大阪市の

 

パリ事務所を訪れ、抗議行動を行う。

2月16日

釜ヶ崎キリスト教協友会は、長居公園での行政代執行を行った大阪市に対し、抗議声明を出す。

3月1日

釜ヶ崎解放会館に住民登録をしているYさんが起こした住民票裁判で、

 

大阪高裁が大阪市へ住民票削除の差し止めを命じる仮処分を決定

3月3日

山王こどもセンター20周年・ストローム福祉会10周年「記念と感謝のつどい」

3月8日

釜ヶ崎キリスト教協友会が「大阪市による住民票の消除」に抗議、署名をしてくださいと

 

支援者によびかけるビラを作成、送付した。

昨年5月2日に、日本橋公園でテントの強制撤去があった事件、口頭弁論

 

(大阪地裁)

3月18日

釜ヶ崎キリスト教協友会越冬報告集会「排除、切り捨てられる野宿生活者ー夜回り、そして

 

行政代執行や住民票問題から見えてくるもの」

4月1日

石井記念愛染園による西成市民館の管理・運営がスタート

4月6日

「ホームレスの実態に関する全国調査」の結果報告が発表される。

 

全国、大阪市ともに野宿生活者総数減少との報告。

 

(大阪市前回6603→今回4069人。全国前回25296→6732人)

4月11日

大阪市東淀川区の中学生6名が、「1週間以内に出て行け」と淀川河川敷の

 

テントに住む男性らに投石、家財道具を放り投げ壊すなどし、大阪地検に

 

書類送検される。

4月12日

昨年5月2日に、日本橋公園でテントの強制撤去があった事件口頭弁論

 

(大阪地裁)

4月16日

9.27弾圧公判が大阪地裁にて行われる(Iさん、稲垣さん)

4月18日

9.27弾圧公判が大阪地裁にて行われる(Iさん、Tさん、Kさん)。

4月19日

9.27弾圧で不当逮捕・拘留されていた稲垣さんが釈放。

4月20日

9.27弾圧で不当逮捕・拘留されていたIさんが釈放。

4月25日

2006年1月の靭・大阪城公園での行政代執行の違法性を問う裁判第3回公判

 

(大阪地裁)

4月30日

長居公園一日テント村:明るいビンボー・メーデー

5月1日

第38回釜ヶ崎メーデー

釜ヶ崎労働者の会が西成市民館でメーデー上映集会。

5月2日

9.27弾圧公判が大阪地裁にて行われる(Iさん、Tさん、Kさん)。

5月7日

9.27弾圧公判が大阪地裁にて行われる(Iさん、Tさん、Kさん、稲垣さん)。

5月16日

9.27弾圧公判が大阪地裁にて行われる(Iさん、Tさん、Kさん、稲垣さん)。

5月23日

高齢者特別就労組合の新年度第一回目の「特就労(準)懇談会」が開かれる。

5月30日

9.27弾圧公判(Kさんへの尋問)が大阪地裁で開かれる。

6月1日

全港湾が大阪府・市に夏の要求書を提出。

6月9日

「貧困に反対する」名古屋行動集会

6月17日

釜ヶ崎労働者の会の呼びかけで、「安保粉砕・政府打倒全国統一行動」が行わ

 

れる。

6月23日

9.27弾圧の第6回公判(Iさん、Tさん、Kさん)が大阪地裁で開かれる。

6月24日

「長居のテント村に大輪の舞台が立った!」上演会が高槻で行われる。

6月25日

NPO釜ヶ崎の山口宏さんが亡くなる。70年代の釜日労結成に参加し、

 

亡くなる前までNPO釜ヶ崎で特掃の現場責任を担っていた。

大阪地裁で9.27弾圧のTさん・Iさんの公判が行われる。

7月7日

第24回全国地域・寄せ場交流会が大阪・芦原橋の「ヒューマインド」にて行わ

      〜8日

れる。

7月2日

大阪地裁で9.27弾圧の稲垣さん・Tさんの公判。

7月4日

高齢者特別就労組合の懇談会開催(西成市民館にて)。特掃の利用者への

 

アンケートの中間報告を検討する。

7月11日

大阪地裁で9.27弾圧の稲垣さん公判が開かれる(最終審理)。

大阪市が「大阪市重点事業計画」で特掃の大幅削減を計画した(年間38,500

 

人から20,200人へ)。命をつなぐぎりぎりの事業の削減をくい止めるため、

 

西成市民館にて、この日から毎週集会が開かれる。

7月13日

北九州市餓死事件に対する緊急声明を東京のNPO法人自立生活サポートセン

 

ター・もやいが提出

8月9日

高齢者特別就労組合準備会が高齢者特別就労事業の大幅削減計画に抗議し、

 

大阪市に要求書を提出

 

1.特掃削減計画の撤回と更なる事業の拡大2.話し合いを本年8月中に行う事

9.27弾圧裁判の判決(稲垣さん、Tさん、Kさん、Iさん)。稲垣さん、Tさんが懲役

 

1年・執行猶予3年、Kさん、Iさんが懲役8ヶ月、執行猶予3年。未決勾留が

 

稲垣さん、Iさん120日、Tさん、Kさん170日の判決が出る。

 


 

編集後記

大阪市に雇用対策などを求めても赤字財政を理由に遅々として進まないのに「弾圧」「強制排除」「住民票削除」の時はいくらお金が掛かろうと、やるといえば待ったなし。大阪府も特別就労事業の拡大を求めて交渉しても「逆さに振っても鼻血も出ない」とお金のなさをアピールしていたが、あるわ、あるわ裏金が。「美しい国」をうたい文句に、国も莫大な年金詐欺をする。税金や年金の使い放題、やりたい放題。国や行政が野宿者を人として見ていないどころか、国民全体も人として認識しているのか怪しい。各地で生活苦の餓死者、家族心中などが起こっていることを見れば、私たち野宿者支援の見えない所で確実に違う弱者が生み出され、尊い命が奪われています。(マーコ)

協友会通信の発行が延び延びになってしまいました。当初は越冬報告、9.27弾圧逮捕、長居公園行政代執行などをまとめ、春に発行する予定でしたが、住民票問題の進展、年明けに寄せ場交流会の開催地が大阪に変更になり、実行委員会の形成から開催まで協友会で大きく関わっていたこと、交流会での史料編纂を記録白書委員会で受け持ったことから、このような時期となってしまいました。結果として充実したものになったと思います。

 今号で扱ったみっつの事件も、マスメディアを通じて流れるときには、面白く、受けのいいように変化し、ことの本質が伝わらない報道姿勢に違和感を覚えます。長居では行政代執行の現場で、当事者を主体とした芝居が上演され、多くの意味をその内に込めていましたが取り上げられず、「激突!ホームレスVS大阪市」みたいにされるか、「支援団体が当自者を省みず大騒ぎ」などです。芝居の上演は、一触即発になりかねない状況で、相手にも仲間にも負傷者や被害者や加害者を出したくない、憎みたいのでもない、普段は言えない「世界を愛してる」。それを言うための芝居でした。役所の態度がどんどん硬化するなかで、こうしたユニークさは光ります。

 寄せ場交流会は、ドタバタしながらの開催でしたが、満足しています。ハードでした。300人分の食べ物、飲み物の用意などは協友会各施設の若いスタッフがおこなってくれました。交流会にはほとんど参加できず、地味な裏方仕事を黙々と、しかも楽しんで行う彼・彼女らに大いに助けられました。お疲れさまでした。(ガスパロ)

2088人分もの住民票が一斉に職権消除された今回の住民票問題。これまでと同じように「これはどう考えてもおかしい」と思い反対の署名を行うも、実際こんなにも多くの人の住民票が消されてしまった。今回交流会などの資料作りをする中で、この問題の経過や大阪市の態度をもう一度読み返していると、ふつふつと怒りが込み上げてきてならなかった。新聞記事などを読んでいると、役所の人たちの中にも「これはおかしいんじゃないの?」と思っていた人が実際に居たことを窺わせる。そんな誰もが矛盾を感じてもおかしくない問題に対して、市政は本当に冷たい答えを出したと思う。誰のための政治?心底そう感じる。色んな権利を奪われるということが、一人の人が生きていく上でどれだけしんどい思いをすることになるか、なぜそんな当たり前のことを考えられない人たちが市政を執る世の中になってるんだろう。(ガニ)

 排除や弾圧、住民票削除の問題など、釜ヶ崎では労働者への著しい権利の侵害があり、支援する人への弾圧もありました。ここでは憲法に定められた国民の権利、生存権や法の平等などは何も守られていません。今、一般にニュースで注目されるのは年金や政治家の汚職問題などばかりですが、釜ヶ崎で起こっている問題はあまり多く報道されないし、あまり知られていません。今のマスコミにも問題があり、各地で起こっている無視できない問題を見逃したり、継続して取材する記者が減っているように思えます。マスコミではあまり多く報道されていませんが、どうかこの協友会通信を一読下さり、事の重大さを知っていただければと思います。(SOS)

 恥ずかしい話ですが、白状します。先日の寄せ場交流会で住民票問題の分科会に参加しました。自分なりに、野宿や日雇いをしている人達の選挙権や行政手続きの権利が大阪市によって意図的にないがしろにされている状態に怒っていたし、そんなことがまかり通る社会に怖さも感じていたからです。そこの分科会では、扇町公園での住民票取得のため裁判をおこしているYさんが司会をしていました。彼は、「自分は、住民票の置き場がないから、やむを得なく公園に住民票を置かせてほしいという裁判を起こしている。高裁では社会通念上公園に住民票を置くのは認められないといっているが、それは自分が訴えていることとは、ずれた判決だ。自分は公園に住民票を置きたいわけではない。仕方なく訴えている」たぶんYさんが実際に言われた言葉とはちがっているでしょうが、私はこのようなYさんの言葉が、自分の中にすうっと入ってきてすっかり恥ずかしくなりました。

 Yさんの裁判の際には、「公園に住民票がおけるようになったら大変なことになる」とか、コメンテーターが「公園に住所が置けるんだったら私が置きますよ」なんていう報道をしばしばみかけていました。私はそれらを見て、何かへんだ、そんなこといったって公園に家を建てるわけないくせに、等と思っていたが、Yさんの言葉を聞くまでその報道の何が変なのかはっきり言える自信はありませんでした。誰かに面と向かって「公園に住民票を置いていいと思ってるの」と聞かれたら、困ってしまったかもしれません。

だからYさんの言葉を聞いたときに、「公園に住民票を置きたいと思っているわけではない。置き場が無くて本当に困っているんだ」実感が伝わってきて、はっとしました。彼の言葉を伝えたいと思います。

 考えてみたら、釜ヶ崎に来て実際に生活している人の言葉を聞いて、私は何度もはっとさせられています。(河童)

 89日、9.27事件の4人に対して大阪地裁の判決が出された。罪名は威力業務妨害。二人に懲役1年、他の二人には8ヶ月。いずれも執行猶予3年。威力業務妨害と言っても実際は、大阪市職員のビデオカメラのレンズに手を触れただけ。これで10ヶ月拘束され有罪、しかも懲役刑。やはり裁判所の判断もどこかおかしいぞ。裁判長!(Q