|
はじめに−夜まわりはひとつのきっかけ 夜回りする側の人間の社会勉強のために野宿者はいないし、決してそうあってはならないのです。 冬の釜ヶ崎=アオカン(野宿)そして夜まわり、そういうウルトラ間違っている構図を頭に描いている人が、もしいたら、根底からひっくり返した方が絶対いいです。釜ヶ崎を本当に知りたいと思う人がいるんなら、冬の早朝、センターの開く朝五時から、少なくとも丸一日を知る必要があると思います。かえって夜だけ知っているという人ほど、一般社会が釜ヶ崎に向けている様々な差別に対して、対抗することがむずかしいような気がします。 夜まわりは、一つのきっかけでいいと思います。夜回りしたからといって、釜ヶ崎のアオカン(野宿)状況そのものは、決してなくならないのです。 (高見 忍) ――― 夜まわり・・・なんか、なつかしく思えて ―――
釜ヶ崎キリスト教協友会は、「人を人として」を合言葉に年間のいろいろな活動をしています。 越冬の夜まわりも、「人が人として」尊重される社会の実現のため、そして労働者の生命を守る活動の一つです。確かにそこには実際、私たちだけでは何もできないという限界もあります。それでも、協友会は、次のようなことを心にとめながら夜まわりを行っています。 (1)1992年以来の不況で、釜ヶ崎周辺だけでなく、大阪市内で失業中の野宿労働者が急増しています。7年前の1998年の大阪市調べで、野宿労働者は市内に8,660人といわれていましたが、おそらく現在でも10,000人を越えると推定されています。年々、仕事は減っています。失業、即野宿の構造があります。野宿は行路死亡を生みます。夜回りは、その死を未然に防ぐことを第一に心がけています。行路死亡(病死)は、年間で200〜300人といわれています。これは日本の社会が釜ヶ崎の労働者を一人のかけがえのない人間として見ていないからです。 (2)また夜まわりは、日雇い労働者の現実にふれ、その現実を変えて行くことも願って行われています。越冬夜まわりも具体的な行動を通し、まず参加する私たち一人一人が、その日雇い労働者への差別や偏見に気づき、変えられていく機会として始められたことを大切にしなければなりません。 (3)また、釜ヶ崎では、労働者がそのものごとを変えていく主人公であることを忘れてはなりません。夜まわりでも、労働者相互の助け合いに、私たちも参加している点を大切にしたいものです。 (4)夜まわり活動とともに年間を通じて医療や炊き出し、生活相談の活動などもあります。夜まわりの続きとして参加してください。
★最寄りの駅 ―JR環状線「新今宮」下車 ―南海本線「萩之茶屋」、「新今宮」下車 ―地下鉄・御堂筋線「動物園前」下車 ―地下鉄・堺筋線「動物園前」下車 ―地下鉄・四ツ橋線「花園町」下車 ★曜日によって、参加人数の制限があります。参加される方は、必ず事前に各連絡先に電話してください。(グループの場合は人数などをお知らせください)。
○チームワークを整えよう。たくさんでまわる時は、勝手にどこかへ行ってしまわないように、相談が長引く時はリーダーに必ず知らせる。 ○ペチャクチャといらんことをしゃべりながら回らない。うるさいだけです。 ○寝ている労働者を大勢で取り囲まないようにしよう。襲撃などがあるため警戒しながら寝ています。 ○労働者と話をする時、なるべくしゃがむなりして目線を同じ位置にして話そう。上から見下ろすと威圧感を与えます。寝ているのが自分だったらどんな気になるか、想像すればわかるはず。 ○寝入っている労働者を無理矢理起こす必要はない。寒さのためいったん起きてしまうとなかなか寝付けません。 ただし、緊急の対応が必要だと思われる場合や、この人はどうかなと思う人に関しては、リーダーの意見を聞こう。 ○呼吸数や脈拍数を目安にして、緊急と思われる時は救急車を呼ぼう。本人が同意すれば、救急車に同行することも必要。あるいは救急車の番号、救急隊員の氏名、搬送先などを詳しく聞いておこう。 ○必要があれば、協友会の情報ビラがあるので、渡そう。 ○襲撃の現場を目撃したり、話を聞いたりしたときは、警察に通報しよう。また労働者からくわしい事情を聞いておこう。 ○犬を飼っている人たちもいるので、犬に吠えられたりしたら無理をしない。リーダーの判断と指示に従う。 ○夜まわりの後は、その日見聞きしたことを報告しよう。
慢性的な失業状態 1992年以降、仕事がない日雇労働者は、冬の期間だけにとどまらず年間を通して野宿生活を余儀なくされています。大阪府全域で野宿生活者の数は1万数千名(’05)を超えると推定されています。この野宿の問題には、二つの大きな原因−失業と社会保障があります。 日雇い労働は慢性的な失業の状態と隣り合わせです。 「あいりん労働福祉センター」での日雇い(現金)求人数は、1日あたりの平均は、好況時の1989年では5,207人だったのに対して、2000年は2,703人、2005年は2,430人といった状況が続いています。構造的な不況の影響で、建設業を中心として日雇い(現金)仕事が減っています。また、雇用者・業者が、寄せ場・釜ヶ崎での求人と言った従来からのやり方を変えたこと、また建築工法の簡素化も、求人数減の大きな原因です。(7ページ、図1参照) 福祉の谷間で 労働者の高齢化も問題です。平均年齢は、60歳に近づいていると言われています。不況に加え、高齢化はますます釜ヶ崎労働者から仕事を奪い野宿へと追いやっています。 高齢で野宿生活者だからと言って生活保護がすぐに適用されるのかといえば、それも問題です。厚生労働省が、生活保護の適用について野宿生活者を区別してはならないという通達を出しています。しかし、区によっては生活保護申請の受け入れをきびしく制限したり、まったく受理しないといったこともあります。 また釜ヶ崎で生活している日雇い労働者や野宿生活者に対する「福祉」に関する相談は、市立更生相談所が行うということが続いていますが、たいていの場合、労働者に対しては「法外援護」、つまり生活保護法などの法律によらない例外的な措置(自立支援センター入所など)での対応が多くみられます。
資料提供:労働福祉センター
働きたいのに バブル景気崩壊以降、ここ数年の、釜ヶ崎での求人状況は、最盛時の3分の1に低迷し続けています。この求人状況の低迷と連動して、雇用保険日雇労働被保険者手帳所持者数は、1986年の約2万5千人から、現在は4千人台と約6分の1に激減しています。最近になって、日本経済は、やっと、好況への転換のきざしが見えて来たと言われ、釜ヶ崎での求人状況も若干増えている様ですが、55歳以上の高齢日雇い労働者の就労機会は、殆ど閉ざされたままです。この高齢日雇い労働者への就労対策として、1994年11月より、大阪府・大阪市によって、高齢者特別清掃事業が実施されています。一日の仕事の紹介人数が、50人で始まったこの事業も、現在は、一日の仕事の紹介人数が191人まで拡大して来ています。しかしながら、仕事の紹介人数が増えるにつれて、この事業に登録する労働者も増えて来ており、月にして3回程しか仕事に就けない状況が続いています。西成労働福祉センターが、2004年6月7日から18日にかけて、高齢者特別清掃事業に登録している労働者に実施したアンケートによりますと、「つきに5〜6回は仕事に行きたい」という要望が多かった様です。このアンケートの結果等を踏まえるならば、高齢者特別事業の継続と拡大は、行政の当然の責務といえます。
生活保護を取り巻く状況 長引く不況が続く中、大阪市立更生相談所や大阪市内の各区の福祉事務所では、居宅(アパート)での生活保護が、従来に較べると取り易くなっていると言えます。しかしながら、こういった状況と、労働者の生活保護に対する無知等に付け込んで、生活保護費を、不当にピンハネする団体等も、最近、増えて来ています。こういった問題に対して行政は、「それは、労働者と団体等の問題である。」と言った言い分で、状況の改善のために積極的に動こうとはしていません。居宅(アパート)での生活保護が受け易くなっている一方では、相変わらず、病院をたらい回しにされて、長期間に渡る入院生活を余儀なくされている労働者も、相変わらず、多く見受けられます。経費の面から考えても、あるいは、自立助長と言う観点から考えても、長期間に渡って病院をたらい回しにされていると言う状況は、早急に改善されるべきですが、ピンハネ団体の問題と同様に、行政は黙認を続けています。また、生活保護の制度も徐々に改変され、老齢加算金や市営交通の半額乗車券の廃止、水道料金の減免措置廃止など、生活保護の実質的な切り下げが起こっています。
長期化する失業 かつては越冬期だけだった右の図のような活動も、労働者の高齢化や大失業時代の今は残念ながら日常化してしまいました。 失業は、結果として野宿せざるを得ない労働者を生み出し、そして労働者の生活のあらゆる面を破壊します。残念ながら困窮した時の生活保護(入院、入寮、居宅保護)などの制度利用も簡単にできない仕組みになっています。 「仕事をして飯を食いたい」 言うまでもなく釜ヶ崎では、仕事が労働者にとって最も重要なことです。だからこそ、NPO釜ヶ崎支援機構が大阪府・市から委託されている「高齢者特別清掃事業」や「センター周辺環境整備事業」(55歳以上対象)といった活動は、仕事保障の一環です。(一人月2〜3回就労) もちろん仕事があって就労ができれば問題はありません。しかし釜ヶ崎に仕事が戻ってくる気配はありません。特に高齢、病弱、「障がい」のある労働者が就労機会を奪われています。 ここ5年ほど前からは、大阪府・市が市内に何ヶ所か「公園仮設一時避難所」や「自立支援センター」を設置し、巡回相談などで入所を呼びかけて、就職活動を応援する施策をはじめました。2007年は「ホームレスの自立支援とうに関する特別措置法」に基づく施策の見直しの時期になり、就労支援の施策の中身が問われることになります。 「野宿をせざるをえない労働者」と夜まわり また、失業は労働者の生命をも脅かします。特に冬期です。その労働者の生命と生活を守る闘いの一つとして夜まわり活動があります。また釜ヶ崎では木曜夜まわりの会(木)暁光会(火)、野宿者ネットワーク(土)が年間を通し夜まわりを続けています。 野宿から生活保障へ 日常的な生活医療相談や夜まわりでの出会いから、生活保障の闘いが始まります。生活保護(入院、入寮、居宅保護)申請のため「大阪市立更生相談所」や「各区保健福祉センター」に付き添います。 生活保護を受けたあとも病院あるいは寮やアパートに労働者を訪問し、生活保障へとつながるための支援をします。
−野宿生活者への襲撃− 主に中・高校生から20歳前後の青少年による野宿者襲撃は残念ながら全国で増え続けており、その結果として年に数人の野宿者が殺され続けています。釜ヶ崎周辺では、襲撃はとくに日本橋で多く起きており、以前からの襲撃の内容をみると、 ü 通行中の段ボールの蹴り、火のついたたばこの投げこみ、空き缶の投げこみ。 ü 自転車を用いた木刀・鉄パイプ襲撃、ロケット花火の発射、煙幕玉の投げこみ、消火器の噴射、生卵の投げこみなど。 ü 車両を用いたものでは花火・エアガン(金属製の弾も用いられている)による襲撃が多く、車から降りてきて木刀で殴られた労働者もいる。 ü 集団で殴る蹴るのあげく内臓破裂で殺す、ガソリン類を野宿者の全身にかけて放火するなど、きわめて残虐な事件もたびたび起きる。 という具合です。こうした襲撃は日本橋でんでんタウンだけで3日に1度の頻度で起こっており、しかも夏休みなど学校の長期休みに多発しています。 襲撃を行った少年たちの証言を見ると、彼らは「ホームレスは臭くて汚く社会の役にたたない存在」「みんなで殴ることで日頃の憂さをはらしたかった」などと語っています。こうした発想は、一般市民の野宿者への偏見・差別を反映しているのでしょう。襲撃する少年たち(襲撃には大人も少女もいますが)が抱えているだろう「襲撃によるストレスの発散」「他者への攻撃による自己の存在確認」といった内面的問題ももちろん重大ですが、何よりも一般に浸透している野宿者への偏見・差別を解消しなければ襲撃を阻止することはできません。 襲撃に対する取り組みとしては、生活保護や就労対策によって野宿をしなくてもよい社会状況を作ること、そして、野宿者襲撃は「若者と野宿者の最悪の出会い」とも言えますが、それに対して、野宿問題を広く啓発し、若者やこどもたち、おとなたちが理解と共感をもって野宿者と出会い交流するという、新しい関係づくりが必要とされています。「夜まわり」は野宿者とのそうした出会いの一つなのです。
2006〜2007年
区別・年度別件数
強制排除を巡るこの一年の状況 2006年1月30日の靭・大阪城公園に続き、大阪市は、2007年2月5日に長居公園で野宿している労働者のテントを「公園整備工事」を理由として、行政代執行法に基づき強制撤去。大阪城・靭公園の強制撤去では「世界バラ博」、2007年は「世界陸上」に伴う公園整備がその名目になっています。次つぎに華やかなイベントの陰で、野宿労働者の生きる場所が奪われています。 これに抗議するため、世界陸上開幕に合わせ、デモを予定していましたが、その前日の2007年8月24日には、長居公園テント村を主宰していたN君が逮捕されました。容疑は「道路運送車両法違反」で、2006年の野宿労働者・支援者5人の逮捕に続く、野宿者運動を潰すことを目的とした弾圧です。
国際的なイベントのある大きな公園だけでなく、2006年から2007年にかけ、そして現在もですが、小さな公園での排除も、数多く行なわれました。こうして、ゆっくりと休むこともできない路上へと、生活の場を移さざるを得ない人たちがたくさんいます。 大阪市の野宿者対策 公園や路上からの野宿者追い出しの動きと並行して、現在大阪市が進めている野宿者対策の中核的事業が「自立支援センター」事業です。 野宿を余儀なくされている労働者の就労自立を目的とて始まったこの事業も、今年で7年目に入ります。自立支援センター大淀・淀川・舞洲の資料による2006年度の実績は、3自立支援センター退所者の合計は427人で、内135人が就労自立とされており、全退所者の31.6%ですが、その実態は、清掃や警備の仕事など、常雇いとはいっても半年や1年と期限を決められていたり、パートやアルバイト並みの時間給や日給月給での雇用が大部分で、安定した就労となりえずに再野宿を余儀なくされる人も多数に上ります。 このような自立支援センターの現状では、公園や路上からの強制排除を繰り返し行っても野宿問題が根本的に解決していく事はあり得ません。大阪市のあまりにも不十分な対策は、結果的により過酷な状況へ野宿生活者を追い立てていると言えます。 「急がば回れ」の諺ではありませんが、野宿者問題を根本的に解決していくには、時間を十分にかけ、ひとりひとりのケースに見合ったきめ細かな対策が必要です。その為にはまず当事者の声を聞くことから始めるべきです。2007年の8月には「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が施行されて5年目にあたり、必要な見直しを行うことになっています。大阪市は強制排除という力で、野宿者問題と関わることを止め、日本も批准している国際人権規約にのっとり、十分な話し合い、希望やニーズに添った自立支援策を一から考えるべき時に来ているのではないでしょうか。
「子ども夜まわり」の始まりは何だったでしょう。 ‘07年で22年目になります。野宿労働者を見て子どもたち、大人たちはどう思ったでしょう。「汚い、怖い、怠け者等」いろいろな差別、偏見の目で見ていました。野宿労働者、おっちゃんたちに花火を投げつけた、つばをかけた−などをしていた子どもたちも夜まわりに参加しました。子どもたちは昼間から道路に座り込んで酒を飲んでいるおっちゃんたちの姿しか見たことがなかった。仕事している所なんて知らない。そこから大人たちも「勉強しないとああいう大人になるよ」と指を指して言う。「本当は違うヨ。仕事だってしているんだヨ」。そんなちょっとしたきっかけで子どもたちが動き始めました。 「何で外で寝てるんやろ?」「ありがとうって言うてくれた」。子どもたちが夜まわりをする中で本当のことを知ってみて考えて接していくとき、当たり前のことが当たり前になっていないことに出会いました。そのときに子どもたちは、「何かおかしいな」と感じます。それが大切なことです。 「この人たちは仕方がないヨー」じゃなくって、何かおかしい−と感じられることが子どもたちのすごい所だと思います。“おっちゃんたちと一緒に暖かい春を迎えたい”。この言葉が夜まわりでそのまま感じとれているように思います。 子どもたちと話している時のおっちゃんの顔を見ると夜回りしていてよかった−と思います。でも夜まわりでなく違った形でおっちゃんたちと出会えるように。 しかし、1995年10月18日には、野宿生活者の藤本彰男さん(63才)が、青年により道頓堀川に落とされ、死亡するという悲しい出来事が起こりました。1998年6月13日、西宮市では、テントで野宿を続ける労働者たちを少年たちが襲撃した結果、その一人が労働者の怒りをかい、殺されるという事件も起きています。2000年7月21日にはJR天王寺駅の歩道に寝ていた小林さんが、高校生4人に顔や背中に殴るけるの暴行を受け死亡。 最近では、2005年10月22日には姫路市内の橋の下で野宿をしていた雨堤誠さん(60才)が、4人の少年から火炎瓶を投げられ焼死。2006年11月には岡崎市で野宿をしていた花岡美代子さん(69才)が少年等に暴行を受けて死亡、現金を奪われるという惨い事件が起きました。 野宿生活者への襲撃は後を絶たず、子どもと野宿労働者との関係は決してよくなっていません。(11頁参照)
こどもの里−子ども夜まわり学習会小史 子ども夜まわりでは、ここ20年間学習会をしてきました。学習会の目的は、夜まわりの意味を子どもの立場で考えるためでした。テーマも内容も釜ヶ崎で起きたことを中心に学んできました。 第1回(‘86) 「釜ヶ崎の労働者と私たちの関係」 第2回(‘87) 「おっちゃん ごくろうさん−学校で教えてくれない日本(釜ヶ崎)の歴史」 第3回(‘88) 「アジアの子どもたちと釜ヶ崎−戦争と開発と子どもの生命」 第4回(‘89) 「釜ヶ崎と子どもたち−子どもの権利条約」 第5回(‘90) 「アイヌ民族と釜ヶ崎(寄せ場)−真実の出会いを求めて」 第6回(‘91) 「日雇い労働者と野宿労働者と行路死」 第7回(‘92) 「世界の先住民」 第8回(‘93) 「寄せ場から生命を考える−アイヌ民族の生き方に学ぶ」 第9回(‘94) 「子どもの権利条約」 第10回(‘95) 「寄せ場から生命を考える(その2)沖縄−ヌチドウタカラ」 第11回(‘96) 「寄せ場から生命を考える(その3)−野宿するおじさんたち」 第12回(‘97) 「寄せ場から生命を考える(その4)−おじさんの個人史を通して」 第13回(‘98) 「寄せ場から生命を考える(その5)−日雇いの仕事と野宿と行路死」 第14回(‘99) 「寄せ場から生命を考える(その6)−野宿するおじさんたちの生活」 第15回(’00) 「寄せ場から生命を考える(その7)−釜ヶ崎の労働者と私たちの関係」 第16回(‘01) 「寄せ場から生命を考える(その8)−日雇労働と野宿と行路死」 第17回(‘02) 「寄せ場から生命を考える(その9)−ジェンダーから見る釜ヶ崎(なんで釜ヶ崎にはおじさんが多いの?)」 第18回(‘03) 「寄せ場から生命を考える(その10)−釜ヶ崎の労働者と私たちの関係」 第19回(‘04) 「寄せ場から生命を考える(その11)−憲法第9条とわたしたち」 第20回(‘05) 「寄せ場から生命を考える(その12)−戦争と子どもたちの生命」 第21回(‘06) 「寄せ場から生命を考える(その13)−排除と戦争」 こんな学集会から予想もしなかった出来事がいくつか起きました。一つは「バナナと釜ヶ崎と私たち」の劇が出来ました。外国人労働者がテーマです。二つは、フィリピンやタイの子どもたちとの出会いを求めて外国に出かけたことです。三つ目は、アイヌ民族の子どもたちと北海道で交流することが出来ました。 学校レベルでは同じ仲間による「いじめ」という排除で、仲間=子どもの生命が奪われ、地域レベルでは少年、少女、大人による「襲撃」という排除で野宿生活者の生命が奪われ、行政レベルでは、行政による「行政代執行」という排除で野宿生活者の生活と生命が奪われ、国レベルでは、「戦争」という排除で沢山の子ども、高齢者の生命が奪われています。 2007年度のテーマは「おっちゃんたちの命」です。釜ヶ崎地域内でも、地域の子どもたちによる野宿者襲撃が明るみに出たことを受け、今一度日雇労働者・野宿労働者の置かれている状況・立場を学び知り、なぜ、おっちゃんたちが襲撃の対象になるのか、考えてみたいと思います。それはまた、自分たち自身の生命を見つめ直すことに連なります。
山王こどもセンター こども夜まわり
こどもセンターでは夜のこども会で月に一回「社会を知ろう」というプログラムを実施しており、1998年から7年間KUIM釜ヶ崎委員会の小柳伸顕さんの協力を得て、1年を通して1つのテーマでアイヌ、釜ヶ崎、韓国・朝鮮、沖縄、筑豊、戦争とこども、西成の今と昔を学習してきました。1999年の釜が崎、2004年の西成区の学習と連動させ、2004年5月から月に1回(不定期 土曜日)ですがこども達と山王地区の夜まわりを始めました。また、2005年度は野宿者ネットワークの生田武志さんによる「野宿者問題を考える」をテーマに学習を続けました。2006年度はメモリアルキルトジャパンの方を講師に招き、エイズ問題に取り組み、いのちの大切さを学びました。2007年は金紀江さんを講師に「違いを認め合って生きる」をテーマに学びます。 山王こどもセンターは地理的に行政区分のあいりん地区に属しますが釜ヶ崎の中には含まれていません。そんな山王地区にも野宿する人々がたくさんいます。住民の中には野宿する人たちを差別・排除の対象として見る人も多く、そんな大人になって欲しくない、差別を許さない人になって欲しいという願いも込め、また自分達の住む山王で野宿する人たちとふれ合う事でたくさんのことを学ぶにちがいないと考え、夜まわりをしています。 7:00 集合・おにぎり作り(3.5升・約65個) 8:00 出発・3コース(阪神高速道路下・新開筋商店街・山王商店街) 9:00 戻って感想文・まとめ後、解散
釜ヶ崎と越冬(1970〜2007) 70年の不況とともに 1969年冬は、70年万博の関連工事で釜ヶ崎は、大好況でした。しかし、万博が終わった70年冬は、一転して不況(仕事がない)が、釜ヶ崎労働者を襲いました。 これに応えるため「生きて春を迎えよう」を合言葉に労働者自身の越冬活動が、花園公園を拠点に始まりました(第1回)。公園にはテントが張られ、炊き出し、医療、就労闘争、文化活動など多彩な活動が繰り広げられました。 弾圧にもまけず しかし、1974年オイルショック不況の中越冬闘争が激しくなると警察は、活動を弾圧してきました。沢山の逮捕者が出ると共に、花園公園の使用まで禁止してきました。労働者たちは、弾圧にまけず、「一人の死者も出すな」をスローガンに、医療センター前を拠点に炊き出し活動や医療活動、労働相談などを越冬期(12月〜1月)集中的に行いました。 労働組合中心から地域の共同闘争 以来、労働組合が中心になり越冬闘争が進められて来ました。その間に組合の分裂もありました。しかし、それぞれがグループの特色を生かして労働者の生命を守って来ました。 12年前からは、労働組合と共に地域で活動する諸グループも協力して、越冬の体制をつくって来ました。越冬闘争は今年で第36回目を迎えます。 不況が長引く中では、越冬期だけでなく炊き出しや医療相談、生活相談などの活動が年間を通して必要になっています。1999年に発足したNPO釜ヶ崎支援機構を含め様々な団体やグループが、年間を通した取り組みを行っています。
釜ヶ崎と越冬(1970〜2007) はじめての越冬 釜ヶ崎協友会(釜ヶ崎キリスト教協友会の前身。1970年に活動をはじめる)が、越冬に関わったのは、1974年の冬です。大阪市民生局(現健康福祉局)の委託を受け臨時宿泊所の運営にあたりました。しかし、協友会は、あくまで労働者の立場で運営にあたりましたので、以来二度と委託されることはありませんでした。 労働者と協力して 1974年の冬は、オイルショックが釜ヶ崎を直撃し臨時宿泊所の閉鎖後も野宿する労働者は絶えませんでした。その労働者に弁当を差し入れすることから労働者との協力ははじまりました。1975年からは労働者の越冬活動に協力するとともに、炊き出し、夜まわり(午後10時、午前2時)を関西キリスト教都市産業問題協議会とキリスト越冬委員会をつくり活動をはじめました。 協友会の活動 1983年冬、協友会は、越冬に向けた新しい歩みをはじめました。キリスト教越冬委員会を発展的に解散し、それぞれのグループが、年間を通じて越冬が提起した問題に関わろうと申し合わせました。労働者の越冬実との協力も深まりました。1987年度からは、こどもの夜まわりも加わり、教会や学校と釜ヶ崎の結びつきも広がりました。 2003年、野宿の状況が一層深刻化してきていることから、それまで一時解散していた越冬委員会を、「越冬小委員会」として改めて組織しました。 協友会の越冬の原点に立ち返って、「一人の死者も出すな!生きて春を迎えよう」をテーマとして、寒さの一番きびしい時期(1月〜2月)の夜まわりを軸としながら、越冬活動(医療・生活相談)に取り組んでいきます。
*
釜ヶ崎キリスト教協友会編『釜ヶ崎の風』(風媒社1990年刊)
*
釜ヶ崎資料センター編『釜ヶ崎−歴史と現在』(三一書房1993年刊)
*
エリザベート・ストローム
*
水野阿修羅『その日ぐらしはパラダイス』(ビレッジプレス1997年刊)
*
ありむら潜『カマやんの野宿−ホームレス問題入門』(かもがわ出版2003年刊)
*
日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』(レンガ書房新社2004年刊)
*
生田武志 『ルポ最底辺』(筑摩書房2007年刊)
1993〜2007 「釜ヶ崎就労・生活保障制度の実現をめざす連絡会」(通称:釜ヶ崎反失業連絡会=反失連)は1993年に立ち上げられました。 その2年まえくらいから、バブル経済がはじけたことと戦後最大といわれる平成不況のはじまりをきっかけに、釜ヶ崎での求人がひどく落ちこみ、50才代の半ばをすぎた「高令」労働者や体力にハンディのある人たちが仕事から遠ざけられるのが当たり前のようになっていました。野宿をしいられる労働者がどんどんふえて、釜ヶ崎周辺で900人、大阪市内で4000人ほどにもふくらんでいました。 たしかに、釜ヶ崎にかぎらず東京の山谷、横浜のことぶき町など、寄せ場とよばれる日雇い労働者の集住するところでは、むかしから野宿する労働者の姿は見かけられたようですが、その多くは宿泊環境のひどさゆえに、外で寝るほうがまし、ということでもあったみたいです。 しかし、90年代以降の野宿者の増大は、あきらかに失業が原因であり、野宿者の平均年令も56才ということで、仕事から排除される年代です。 しかも大阪市の民生行政は、住まいを失った人に対して冷たく、生活保護法による救済をみとめず、当時、「行旅(病)死者」(行き倒れ)は、西成区だけで300人におよぶというありさまでした。 反失連 日雇い労働者をとりまくこのような苦境を打ち破るため、そして労働者が就労によって生活を保障されることをめざして、93年9月、反失連が結成されました。 それまで釜ヶ崎では、さまざまな団体および個人がおのおの活動をつづけ、それぞれの役割をはたしていましたが、かつてない深刻な危機をむかえて、もはや個々べつべつの活動では事態を変えることができないとの判断から、みんなで連携・団結してたたかおうということでした。 釜日労、釜ヶ崎キリスト教協友会、勝ちとる会、医療連、釜ヶ崎連帯会議、野宿者ネットワークの各団体が参加しました。 行政交渉、労働センターでの泊り込み闘争、府庁および市庁前の野営闘争、のべ6名の不当逮捕・拘留に対する裁判闘争をくりかえす中で、府(労働)・市(生活)の縦割り行政にゆさぶりをかけ、「高令者特別就労事業」=特掃(94年11月)を引き出し、夜間緊急避難所「テント・シェルター」(99年9月)を設置させるところまではこぎつけました。 しかし、シェルターといっても250人しか泊まれないもので、特掃も一日わずか50人分、さらに闘争をくりかえしても1年に5〜10人分しかふえないという、労働者の必要の数パーセントにもみたない行政の対応でした。 きちんとした受け皿の用意がないかぎり、施策もおざなり、また議会の承認もえられないという壁に突き当たっていたのです。 NPO釜ヶ崎支援機構 99年9月、反失連は特掃拡大のための受け皿として、NPOを立ち上げました。これが「釜ヶ崎支援機構」です。 特掃はその年の11月1日から3倍の1日154人分にふえました。現在では特掃の輪番登録者2,784名、1日215人が就労しています。 大阪市はこのNPO受け皿として、翌年4月、「あいりん臨時夜間緊急避難所」(シェルター)を建て、現在ではあわせて1,040人夜をしのげるようになっています。 NPOは福祉部門をももうけ、労働者の生活保護への移行の手だすけにも力を注いでいます。 また、行政は2005年から南職安跡地に「大阪ホームレス就業支援センター」をつくり、NPOに管理運営をゆだねて、民間からの仕事開拓をもねらっています。まだ始まったばかりで、どのような成果を上げることができるか、試行錯誤の段階です。 「仮設一時避難所」「自立支援センター」「ホームレス自立支援法」 大阪市は公園の「適正化」を目的に、野宿者のおおぜいいる公園内に「仮設一時避難所」(長居・西成・大阪城)を建て、テント小屋の解消をこころみましたが、成功しませんでした。 また、就労支援を目的に「自立支援センター」(大淀・淀川・西成)を立ち上げましたが、出口である仕事をセットできず、頭打ちの状態で、多くの人がふたたび野宿にもどっています。 2002年7月に「ホームレス自立支援法」が成立していますが、肝心の就労対策が「実施計画」に欠落しているため、このままでは成果は期待できません。実施計画の見直しがつよく求められます。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||