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社会福祉法人暁光会

Last-modified: 2022-02-11 (金) 19:39:00
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社会福祉法人暁光会

1949年、パリミッション外国宣教会に入って間もなく、フランスから神戸にやってきたロベール・バラード宣教師は、戦争の災禍の残るこの町で、自分に何ができるのかと悩んでいました。家を失い、職を失い、高架下や河川敷にバラックを立てて暮らしているひとが、まだ沢山いたのです。そんな頃、東京の蟻の町の噂を聞きました。蟻の町は東京の隅田川の河川敷にあったバタ屋(くず拾いをする仕事のこと)部落でしたが、蟻の会という自助グループを作って共同生活を行っている点が、当時沢山あった他のバタ屋部落と大きく異なっていました。1953年、バラード宣教師は蟻の町に行き、そこにくらす人々や北原怜子(後に蟻の町のマリアと呼ばれる)さんと出会い、住み込んでバタ屋の仕事を覚えました。ある時、バラード宣教師は北原怜子さんに自分の悩みを相談すると、彼女は神戸で蟻の会をやるよう彼に勧めたそうです。
1956年、バラード宣教師は蟻の会の有力なスタッフを連れて神戸にもどり、バラックの立ち並ぶ生田川の河川敷に、自分もバラックを立てて暁光会を立ち上げ、個別バラバラに暮らしていた河川敷の住人たちに、会計を共同化することで医療や食費、こどもの就学費を賄えること、余剰金の蓄積でさらに発展していける可能性や、より困っている人を助けていく活動であることを、自分もバタ車(大八車)を引きながら訴えて回りました。日本でも社会最底辺に位置したバタ屋家業、それを行う西洋人というのは当時では本当に珍しいもので、当初はなかなか集まらなかったメンバーも次第に増えて行きました。
1958~1960年ごろ、はっきりした記録は残っていないのですが、暁光会武庫川支部がありました。これは生田川での活動が飛び火し、武庫川大橋東詰の河川敷にあった集落が、まるまる暁光会武庫川支部となったもので、託児所や診療所まで備える集落でした。いま残る写真で、バラックの立ち並んだ大規模な集落や、大水が出たときに屋根まで水に浸かり、みんなが橋の上に避難している様子、水が引いた後の泥だらけの集落、橋の欄干に水につかった着物を干している様子が確認できます。この暁光会武庫川支部は、1960年を過ぎたころ県による河川整備のため活動を終了しました。
同じころ生田川の暁光会も、河川整備のため、現在の神戸市中央区吾妻通に土地を求めて移転しました。
1958年、大阪市の西成区北津守に200坪の土地の購入と、カトリック大阪大司教区から400坪の土地を借りるにいたり、大阪支部が誕生し、当時は地域に保育園・幼稚園がなかったことから、1959年に併設して保育園を作るために法人格を取得、社会福祉法人暁光会となり、1960年、暁光会ひかり学園が誕生しました。
1961年、箕面の山林にあった土地を購入して、そこで果樹園や養豚を行うとともに、高齢化したメンバーの憩の場として、老人専門の北原病院(病院の名前は、北原怜子さんの性から取られています)を開設、1970年、あかつき特別養護老人ホームを併設して1975年に北原病院を廃止しました。
東京では、作家の須賀敦子さんの尽力を得て、エマウスの家が1974年に誕生しました(2010年廃止)。