人を人として
釜ヶ崎キリスト教協友会紹介パンフレット「人を人として」より
1. はじめに
寄せ場、日雇い労働者の町"釜ヶ崎”は、大阪市西成区にあります。約0.7k㎡程の広さの地域に約20,000人の日雇い労働者が生活しています。
日雇い労働者は、建設・土木、あるいは造船、港湾労働などの仕事に従事しています。釜ヶ崎にある「あいりん労働福祉センター(センター)」での日雇い(現金)求人数、1日あたりの平均は、1999年2,186人、2000年は2,703人、2001年9月は2,111人といった状況が続いています。構造的な不況の影響で、建設業を中心として日雇い(現金)仕事が減っています。また、雇用者・業者が、寄せ場・釜ヶ崎での求人といった従来からのやり方を変えつつあるのも、求人数が減ってきている原因の一つです。つまり従来通りセンターで求人した場合、雇用した業者・会社は労働者に最低賃金13、500円を支払うことになります。しかし最低賃金を抑えるために、センターでの求人(手配)ではなく、新聞や求人雑誌などの広告による求人を行う業者が増えてきています。また、期間雇用、つまり一定期間「飯場」に寝泊りしてする仕事でも、雇用期間中の飯代や布団代などを徴収することで、実際には賃金を低く抑えたり、あるいは逆に労働者に借金を負わせるような業者もいます。
しかも、求人の大半が50歳以下の労働者を対象としており、50歳をこえると雇ってもらえない、仕事がない状況が続いています。そのため、大阪市全域で1万数千人の野宿を余儀なくされている労働者(以下野宿生活者と略する)がいます。釜ヶ崎と天王寺公園や難波、日本橋などの周辺をも含めてみると、約2,000人近い野宿生活者が路上で生活しています。ほとんどの野宿生活者が「仕事があれば働きたい」と言い、アルミ缶やダンボールなどを回収しています。しかしアルミ缶は1キロ当たり80円、ダンボールは1キロ4~5円でしかなく、夜間の交通量の少ないのを見計らって一晩かけて集めても、手元に残るのはわずかのお金で、簡易宿泊所(ドヤ)に泊まることもできません。ですから、かなりの野宿生活者が、公園や道路沿い、または河川敷にテントを張り長期にわたる野宿を強いられています。
2. 反失業闘争
1993年、釜ヶ崎日雇労働組合を中心として、地域内外で活動している諸団体により「反失業連絡会」が結成されて以来、反失業闘争が積極的に押し進められてきました。この闘争の中で、センターのシャッターを夜間も開放させて、中で就寝できるようにさせました。1999年からは、それに代わり、大阪市が所有するセンター近くの空き地を提供させ、そこに自力で250人収容のテントを設営し、現在も自主管理を続けています。こうした反失連の動きが行政を押し上げ、大阪市は南職業安定初跡地に400人規模のテントを設営し、その後2000年3月からはテントに替えて、600人が収容できる臨時宿泊所(シェルター)を三角公園横の南海電車跡地に設置しています。
1999年6月からは、それまでの反失連の運動で勝ち取った成果をふまえて、釜ヶ崎の運動に関心を寄せる人たちも含めて、特定非営利法人「釜ヶ崎支援機構(NPO釜ヶ崎)」を発足させました。上記の三角公園横のシェルターの管理運営を委託されています。
反失業闘争のもう一つの成果は、55歳以上の中高年齢者のための特別清掃事業を大阪府・市から勝ち取った事です。当初は、登録者940人で一日50人の就労状況だったこの事業も、毎年半失連による大阪府・市に対するねばり強い交渉の結果、現在では、約3300人の登録者で、一日約250人の雇用枠にまでなっています。この特別就労事業もNPO釜ヶ崎が委託運営しています。
野宿問題の抜本的な解決のためには、国や各自治体による安定した雇用の確保と、それを保障する何らかの公的な事業の実施が今後ますます必要です。
3. 福祉行政の問題
釜ヶ崎で生活している日雇い労働者や野宿生活者に対する「福祉」に関する相談は、大阪市立更生相談所(市更相)が行うということが続いています。しかし「福祉」の相談といっても、この市更相は労働者に対して、大抵の場合、生活保護法による居宅や病院での保護を行わず、法律によらない短期の緊急宿泊施設での対応しかしていないのが現状です。社会福祉法人自彊館が大阪市から委託されて運営している緊急宿泊施設・生活ケアセンターには170人分の宿泊用のベットがありますが、ここの入所者(最長で2週間)を選別するのも市更相で、入所希望者の一人一人の状況に合わせた適切な判断がされているとは言えません。
野宿生活者、日雇い労働者のかなりの人たちが社会保障を正当に受けられない状況があります。ただ少しずつですが、釜ヶ崎医療連絡会議やNPO法人日常生活支援ネットワーク、釜ヶ崎キリスト教協友会などの各団体・グループの行政への強い働きかけによって、路上生活から生活保護を取得する道を切り開いてきています。また、従来の簡易宿泊所がアパートとして登録を切り替え、しかも入居の際には敷金・礼金の支払がいらない、いわゆる「福祉マンション」が増加してきました。そのため以前よりは、路上から生活保護を取ることが容易になってきています。
しかし、市更相が依然として釜ヶ崎の日雇い労働者、野宿生活者の「福祉」の窓口であり続け、また大阪府・市など行政が現状の生活保護法の適用を是正しない限り、釜ヶ崎の「福祉」の問題は残り続けます。
釜ヶ崎の日雇い労働者は、不安定な雇用状況と不十分かつ不適切な福祉行政の対応から、未だ厳しい状況におかれているといわざるを得ません。
今後も反失業闘争や「福祉行政」に対する取り組みを押し進め、雇用と安定した居住場所の確保、何らかの公的な事業の実施を国や各自治体から勝ち取っていくことが必要となっています。
釜ヶ崎に拠点を持たない運動体の特色を生かしてKUIMは、ここ最近も釜ヶ崎日雇い労働者・野宿を余儀なくされている労働者の生存権確立の取り組みを続けています。
具体的には、協友会の1メンバーとしてセミナー等の取り組みや行政との話し合いを行ったり、又、釜ヶ崎医療連絡会議の1メンバーとして、生活保護の申請の取り組みを支援しています。
釜ヶ崎日雇労働者の生活保護の実施期間である大阪市立更生相談所は、最近では居宅(アパート)保護への変更も行うようになってきましたが、圧倒的に多くの労働者は本人の希望に反して施設や病院での生活を余儀なくされており、大阪市立更生相談所が従来より続けている「施設収容主義」の方針は基本的には変わっていません。
バブル景気が崩壊してから早くも10年が過ぎ去りましたが、釜ヶ崎日雇労働者・野宿を余儀なくされている労働者を取り巻く厳しい状況は基本的に変わらず、今や大阪市内だけでも1万5000人を越える労働者が公園や路上での野宿生活を余儀なくされていると言われており、このような野宿者に対する襲撃事件も相変わらず後を絶ちません。襲撃事件が後を絶たないのは野宿問題がまだ充分にこの国の社会問題として認知されていないことを象徴的に示すものです。
このような野宿者急増の動きを受けて、大阪市内でも自立支援センターが3箇所設置される等して国レベルの野宿者対策も最近になってようやく始められていますが、その内容は抜本的対策というのにはほど遠いのが現状です。最近では国レベルでの野宿者対策を法制度化しようという動きもありますが、国の野宿者対策の現状を考えると法制度化されることによって全ての人々に平等に保障されている生存権が野宿者には基本的に適用されなくなる事を懸念します。国=行政は野宿者対策を進めていくべきであるし、その上で法制度化が検討されるべきだと思います。今後もますます不況が続くことが予想される中で、現状の、国=行政による野宿者対策を進めていっても野宿者問題の根本的な解決が先送りされるだけにしか過ぎないと言っても過言ではありません。こういった国=行政の現状を少しでも変えていくためにKUIMとしてもこの間釜ヶ崎で続けている取り組みを今後もねばり強く続けると共に、セミナー・フォーラム等の開催を通して、一人でも多くの人々に釜ヶ崎の現状を伝えながら、釜ヶ崎日雇労働者・野宿を余儀なくされている労働者の生存権確立の取り組みをこれからも続けていきます。
希望の家は、ドイツ・ブラウンシュヴァイク領邦教会のE・ストローム宣教師によって1976年に開設されました。ストローム宣教師は1963年に大阪・西成区で活動を始め、1973年ごろから釜ヶ崎のアルコール問題と関わり始めました。1975年から断酒サークル「むすび会」が始まり、喜望の家の開設に至りました。1977年からは日本福音ルーテル教会より邦人牧師が派遣され、現在で4人目です。1982年にストローム宣教師が帰国、1986年、ドイツからアルコール依存症に関するソーシャル・セラピストのB・ワルター氏が派遣されました(1992年に帰国)。以降ドイツ・ブラウンシュヴァイクのルーカス事業団で行われているセラピー・プログラムをモデルとして、自立支援プログラムが始まり、現在に至っています。
現在、喜望の家は、職員4名、一年間ボランティア1名、ボランティア約40名で活動しています。活動の中心はアルコールや薬物などの依存症の問題を抱えた方々に「自立支援プログラム」を提供しています。
自立支援プログラムは、参加者が断酒決断を維持していくことを支援するもので、参加者は精神病院やアルコール関連の病院に入院せず、喜望の家に通所し、毎日の様々なプログラムに参加します。期間は約4か月から6か月です。
プログラムでは、参加者は、小グループによるミーティングと個人面談、絵画療法、陶芸や工芸などの作業療法などを行います。その中で自分の感情を受け止め、また表現する事を学び、自分の依存症の背景の問題と取り組む事、問題の解決を図ることを目指します。
アルコール問題以外でも釜ヶ崎キリスト教協友会のメンバーとして越冬期間中の夜回りや相談など、釜ヶ崎内外での活動に参加・支援をしています。
暁光会大阪支部は世界各地で活動するエマウス運動の日本の拠点として1956年にこの西成の地で始められた、「家なく、仕事なく、貯えもない」仲間たちの生活共同体です。他人が不用とする古紙・空き缶・古物・中古衣類等の回収を仕事にして、現在、20歳より70歳代の19人のメンバーが助け合って暮らしています。更に、私たちは自分の日々の生活安定を目指すだけでなく、もっと困っている仲間達との連帯の輪を広げたいと努力しています。たとえば、1999年より近くの公園で野宿を余儀なくされ、廃品回収で生活する労働者の集める「古新聞買あげ協力」があります。最近の古紙回収価格の低落は、彼らの生活をどん底に追いやっています。何とか毎日の食費の最低だけでもと、市場相場の倍額以上の価格で古新聞を引き取り、その苦境を分かち合い連帯しています。釜ヶ崎キリスト教協友会とは創立当初より、地域から少し離れていますが、同じ貧しい労働者仲間として参加し協力してきました。
また、聖母被昇天修道会とパリーミッション女子会のシスター達も、暁光会メンバーと共に大阪支部や釜ヶ崎の活動に参加しています。
隣接の暁光会ひかり学園は定員90名の保育所で1959年開園、パリーミッション会のシスター達を中心にエマウス精神で地域に密着した保育所となるよう心して取り組んできました。現在常時100名以上の0歳から5歳児の「保育にかける子どもたち」が在園しており、釜ヶ崎周辺からも相当数の園児が来ています。
1978年フランシスコ会ふるさとの家の2階「子供の広場」に始まる。1980年守護の天使の姉妹修道会が受継ぎ、「こどもの里」となる。1996年大阪市子どもの家事業として認可される。1999年カトリック大阪大司教区が受継ぎ、現在に至る。
こどもの里が大事にしていること。
1.必要とする人は誰でも利用出来る場である事。2.遊びの場、球速の場である事。3.学習の場である事。4.利用する子ども達や保護者の抱える様々なしんどさも受け入れる事の出来る場である事(里親として現在6名受け入れている)。5.より弱い立場の友だちと、共に助け合って生きていく場である事(「障害」児・者11名受入)。
必要とする子は誰でも0歳児から受け入れているので、里には大きな家族、家庭が生まれました。23年間となると、その昔利用していた子が今は親となって、自分の子を連れて来て親子で遊び、ほっと出来る場となりました。最も困難な状況に置かれている釜ヶ崎とその周辺の子ども達、「障害」を抱え、行き場の無い子達の生活を少しでも「こども権利条約の」理念に近づけたいと、生活丸がかえの相談に乗っています。例えば、野宿する親子、両親の一時的な事情により残される子ども達に緊急一時宿泊、生活の場を提供しています。
また、寄せ場のど真ん中にあり、保護者が日雇いの仕事をしている子も居り、日雇いやその結果としての野宿生活者に対する蔑視、偏見、差別に真っすぐ目を向け、自分にも覆うであろう現実を正しく見据えられる様、今自分達に出来る事をしています。例えば、子ども夜まわり(野宿生活者を訪問し、話を聞く)をしたり、自分達と同じ様に抑圧されている他の国のこどもに目を向け学び、そして現地に足を運び友だちになりました(アイヌシモリやフィリピン)。逆に、全国から釜ヶ崎を体験する場、野宿生活者との出会いの場を提供、青少年達の野宿者への偏見を取り除く手助けをしています。
運営は、大阪市の補助金が全体の半分、残りを全国の支援者からの寄付金と支援物資のバザーでやりくりしています。皆さんの支えがあって、子どもの里の大切にしている事が実現されています。
郵便振替 こどもの里ともの会00960-3-145831
1964年、ドイツのE・ストローム宣教師が自宅で幼児を預かった事から「釜ヶ崎家庭保育の家」としてスタートし「西成ベビーセンター」(保育所)と名称を変えながらも地域のこども達と共に歩み続けてきました。
'83年ストローム宣教師が定年帰国後、'85年に運営母体であった日本福音ルーテル教会が財政難によりセンターの閉鎖を決定しましたが「ここを必要とする子供たちがいる」と、父母や支援者が世話人会を結成し、有志者からの出資金で教会から土地建物を買い取り自主運営を始めました。
'96年に社会福祉法人格を取得し、大阪市こどもの家事業の認可施設としていつでも誰でも来れる児童館をモットーに活動しています。
乳児から青年達、「障害」を持つこどもも大人も遊びを通して共に育ちあう中で社会性や自主性、協調性をはぐくみ、リーダーシップを養うことを目標にしています。
昼間の日替わりプログラム、夜間のこども会、勉強会、四季折々の行事等こども達のニーズに合わせた活動を行い、年間プログラムの「社会を知ろう」では自分達を取り巻くさまざまな社会の問題に目を向け、自分自身の問題として取り組んでいます。
センターで成長した青年達は日常的に活動を支える大きな力となっており、子ども達の保護者会「おやおやクラブ」、たくさんのボランティア、全国の支援者による物心両面の支えによって活動を続け、「センター通信」(月刊誌)、ホームページ(http://www5c.biglobe.ne.jp/sannoh/) でそれを伝えています。
守護の天使姉妹修道会は、1839年南フランスの片田舎キジャンで於いて創立された。
釜ヶ崎には、1976年4月、貧しい人々を優先する会の選択に応えるために山王に家をかりる。最初は老人食堂、病院訪問、家庭訪問、地域の子ども達とのまじわり、断酒会等の諸活動に参加していた。1980年、釜ヶ崎の中での子ども達の遊び場が必要となって来たため「子どもの里」を開設する。19年間子ども達の幸せ、成長を願って共に歩んできた。
その後労働者の町であるこの地域で、私達ができる必要性に答えたいとの願をもって近くに家をかりる。現在は「高齢労働者作業所一休」で、仕事を求めても仕事にありつけない高齢者の方々を対象にかかわっている。
空きビン、古いローソクを集めてのローソク作り、送られてくる衣類、石けんタオル等で路上バザー、一人一人のかかわりを大切に、少しでも自立の手伝いが出来ればと心から願いながらスタッフメンバーと共に希望を持ってあゆんでいる。
他に「喜望の家」でのボランティア、そして外国人労働者の病院や入国管理局での通訳、家族との交流を深める事にも力を入れている。又若者たちと釜ヶ崎を通して社会を見つめ、連帯してきたことを今後も継続していきたい。
大阪・釜ヶ崎にあって、この地域のボランティアや支援者の基地として長らく活用されてきた。ここから巣立っていった支援団体もあるが、現在は、釜ヶ崎キリスト教協友会の事務局、木曜夜まわりの会やアジアンフレンドの活動拠点として活用されている。
また現在、最も力を入れている活動は、寄せ場と日本の社会の接点として、体験学習の場として随時セミナーを開催しながら、日本の一般社会に対して意識化と変革をめざすセンターとして活動している。とくに、多くの高校生や大学生など、若者達が授業では学ぶことのできない社会の現実に触れることによって、自分の将来の生き方のあり方を見つめる機会を提供している。
もうひとつの活動として、社会的霊性ともいうべき新たな霊性発掘の場として活用している。従来のカトリックの黙想の家では、日常生活や社会生活から切り離された場で、静かに瞑想するスタイルが一般的だった。ところが、この旅路の里では、釜ヶ崎という街において、社会の現実に直接触れることによって、そこから神のメッセージを聴くという黙想の形態を提供している。そのような社会の現実の中で祈りを深めたい方はぜひともご連絡下さい。
なお、旅路の里は、支援者や関係者の宿泊する場として開放している。遠くから来られる方は気軽にご利用下さい。また釜ヶ崎ではさまざまなボランティアが必要とされている。新たにボランティアをしてみたい方や体験学習へ参加したい方はいつでもご連絡下さい。
日本における高齢化の波は、釜ヶ崎では5年から10年先行していると考えられます。日本経済の底辺を支え、貢献し続けた日雇い労働者も高齢になり、働く体力が無くなり、日雇い労働から外される現実は、今後いっそう多くなります。その結果、野宿を余儀なくされ、その日のおにぎり1個も事欠く状態に追い込まれます。「出会いの家」の使命として、今、目の前に倒れている人、倒れ掛かっている人々をそのまま見過ごす事は出来ません。釜ヶ崎では、高齢労働者の「仕事を」「寝るところを」「満足な食事を」求める声は、いっそう大きくなるばかりです。
「出会いの家」では、人間らしい生活(野宿からの解放)をめざし、
1.無料の宿泊(約100床分)
2.お替り自由な栄養のある食事の無料提供
3.野宿から自分の城への生活保護(居宅保護)のお世話(年間約300人程)
4.病気の方、ケガをしている方、体の弱っている方々と個別に相談し、大阪市立更生相談所や福祉事務所へ本人と同行し、入院・施設・生活保護などの交渉をしています。
5.「出会いの家」の正面には「無料貸本コーナー」もあり、多くの労働者が喜んで利用(1日300~400冊)してくれています。
こうした従来の活動に止まらず、釜ヶ崎の労働者の地位向上、更には自立・自存がどうすれば可能かを、皆さんと一緒に考え実現の方向を模索し続けるのが「出会いの家」の役割と考えます。
「出会いの家」はバックも無く、個人的に運営しているため、経済的にいつも圧迫され自転車操業を余儀なくされています。
ふるさとの家は大阪の釜ヶ崎にあります。
釜ヶ崎は、社会の底辺を支える(建設、土木、港湾関係の仕事に就く)日雇労働者がかつて、2万人生活する町でした。しかし昨今不況下、企業は安全弁としか使っていなかった日雇労働者を真先に切り捨て始めたので大半の日雇労働者が仕事に就けなくなりました。失業の結果今では1万人以上の人が公園や路上で野宿生活をよぎなくされ、炊き出しにならぶ姿であふれています。
高齢化した労働者にとっては就労の機会が少ないうえ、長引く野宿生活からくる病気においうちをかけられ死活問題になっています。
就労の道が断たれた生活困窮者であるにもかかわらず、住居がないということで、最も生活保護を必要とする者が、それを受けられないという矛盾の中に捨ておかれています。
社会構造からくる貧困の問題であるにもかかわらず、行政も社会の目もこれらの人々に対して自己責任だから、なまけものだからと決めつけた偏見と差別で社会保障の門戸を狭くし、人間の尊厳を無視したうえ生存権や人権を奪っています。
ふるさとの家は抑圧され差別され人権を奪われた人の側に立ち弱い立場の人が本当に大切にされる社会正義の実現を目ざしています。
実現に必要な基盤
- 社会的弱者の就労を確保する事
- 生活困窮者があわれみによる援助によってではなく社会保障によって"自立"すること
- しいたげられた人同士の"連帯"の力
- 社会の偏見と差別を取り除く啓発
1933年、フランスより3人の会員が釜ヶ崎の地を踏み、病人のための無料診療所、家庭訪問、食事に困っている子ども達の世話などを、多くの恩人や協力者と共に働いた先輩達の後に続き、現在に至っている。そのときどきの必要にしたがって協力し活動するグループは違っても、めざす目的はいつも、より貧しくされた人々の側に立って共に働く事でした。
現在、見える形として続いているのは、1972年、「食堂いまみや」が手狭で移転をした後を利用して始めた「ソーイング・ルーム」である。労働者の作業着の修繕や、丈つめの仕事で、喜ばれている。「今まで破れたら捨てていた。買い替えなくてもいいので助かる。」と。しかし、この頃は居宅保護のお客様が多く、あのごつい〔ひちぶ〕のズボンが少なくなり寂しい思いをしている。高齢者が多くなり、誇りを持って働いていたトビ職の仕事ができなくなったせいである。この小さな「ソーイング・ルーム」にも時の流れが見える。
1999年11月より新たなニードで、NPO釜ヶ崎支援機構の経理と福祉のボランティアをさせて頂いている。また反失連の会計のお手伝いもある。その合間に居宅保護のアフターケア、病院訪問。ときどきテント村の訪問。私達でできる事をできる方法で継続する事が、いま望まれている事だと励んでいる。